初期の道家思想家、開祖、上清・霊宝の祖師、内丹の大家、斎醮科儀の専門家、道教を尊崇した帝王、近現代の方丈、および中国内外の道教研究者。時代順に配列し、流派や役割で絞り込めます。
老子、姓は李、名は耳、字は聃、春秋末期の思想家で、周の守蔵室の史であったと伝えられる。『史記・老子韓非列伝』には孔子がかつて老子に礼を問うたと記され、後に老子は周の衰えを見て函谷関から西に出、関令の尹喜の求めに応じて上下篇、道徳の意を言う五千余言を著して去り、その最期は誰も知らなかったという。その著書『道徳経』(『老子』)は「道」を万物の本源とし、自然・無為…
関尹、すなわち関令尹喜、春秋末の周の函谷関の関令。『史記』には老子が西に関を出る際、「関令尹喜曰く、子将に隠れんとす、強いて我が為に書を著せ」と記され、老子はそこで『道徳経』五千言を著したという。『荘子・天下』は関尹と老聃を並べて「古の博大真人」とし、その学は「貴清」を宗とし、「己に居る無く、形物おのずから著る」ことを主張したと述べる。『漢書・芸文志』には『…
荘子、名は周、戦国中期宋国の蒙の人で、かつて漆園の吏を務め、梁の恵王・斉の宣王と同時代であり、恵施と友人であった。『史記』は「学は窺わざる所無く、然れどもその要は本と老子の言に帰す」と称する。彼は生涯貧しさの中にあって楚の威王の招聘を拒み、逍遥・斉物・養生・坐忘・心斎を主張し、精神の絶対的自由を追求した。現行本『荘子』三十三篇(内篇七、外篇十五、雑篇十一)は…
列子、名は御寇(圄寇とも作る)、戦国前期鄭国の人で、鄭の地に四十年隠棲し、名を求めなかった。『荘子』はしばしば彼が「風に御して行く」と述べており、その人は老荘の間に位置する道家的人物とみなされる。現行本『列子』八篇は、旧に列御寇の撰と題され、晋の張湛が注をつけた。学界では現行本は魏晋の人により整理・増補されたとみる説が多いが、それでも先秦の資料を少なからず保…
文子、老子の弟子と伝えられる戦国道家の人物で、その生涯は考証が難しい。『漢書・芸文志』は『文子』九篇を著録し、班固は自注で「老子の弟子、孔子と並時」とする。一説には文子はすなわち范蠡の師である計然であるという。現行本『文子』十二篇は内容の多くが『淮南子』と重なり、長らく偽書とみなされてきた。1973年、河北定県八角廊の漢墓から竹簡『文子』が出土し、この書に確…
楊朱、戦国前期の思想家で、墨翟と斉名し、孟子は「楊朱・墨翟の言、天下に盈つ」と述べた。その学説は「為我」「貴己」「重生」を核心とし、「性を全うし真を保ち、物をもって形を累わさず」を主張し、「一毛を抜きて天下を利するも為さざるなり」(孟子の語、多く批判を含む)とした。楊朱には著作が伝わらず、その言論は『孟子』『荘子』『韓非子』『呂氏春秋』と『列子・楊朱』篇に散…
鶡冠子、戦国晩期楚国の隠士で、鶡鳥の羽をもって冠としたことからその名を得た。姓名は不詳。『漢書・芸文志』は『鶡冠子』一篇を道家に著録する。現行本『鶡冠子』十九篇は、思想は道家を主としつつ兵家・法家と陰陽数術を兼ね融合し、「道は法を生ず」を主張し、天道・元気・賢人政治などを論じ、黄老道家の重要な著作である。柳宗元はかつてこれを偽書と疑ったが、1973年に馬王堆…
安期生、秦代の方士、琅琊阜郷の人で、河上丈人の弟子と伝えられる。『史記・楽毅列伝』には彼が黄老の学を毛翕公に伝えたと記され、黄老学派の早期の伝承者である。『史記・封禅書』には李少君が漢の武帝に「臣かつて海上に游び、安期生を見る。安期生は巨枣を食らい、大いさ瓜の如し。安期生は仙者にして、蓬萊中に通ず」と語ったと記され、武帝はそのため方士を遣わして海に入り安期生…
徐福、秦代の方士、斉の地の人。『史記・秦始皇本紀』には、始皇二十八年(前219年)、徐福が上書して海中に蓬萊・方丈・瀛洲の三神山があり仙人が居ると述べ、斎戒し、童男女とともにこれを求めることを請い、始皇帝は徐福に童男女数千人を発して海に入り仙を求めさせたと記される。数年得られず、費用が多くかかり、徐福は咎めを恐れ、大鮫魚に苦しめられていると偽って称した。三十…
秦の始皇帝嬴政と道教との関係は、彼が燕斉の方仙道を受け入れ推し進めた点に集中している。『史記・秦始皇本紀』『封禅書』によれば、統一後、彼は五度にわたり東方を巡幸し、たびたび海上に至って仙を求めた。始皇二十八年(前219)には泰山にて封禅を行い、同年、斉の人徐福(徐巿)を遣わして童男女を率いさせ、海に入り蓬莱・方丈・瀛洲の三神山の不死の薬を求めさせた。また燕の…
帛和、字は仲理、後漢末魏晋間の方士である。『神仙伝』には、董奉に師事し、また西城山に入って王遠(王方平)に仕え、『太清中経』『神丹方』『三皇天文』『五岳真形図』を得て、後に西山(一説に林慮山)で修煉したと記される。魏晋の時期、帛和を祖とする「帛家道」は江南の士族の間で流行し、『真誥』にも複数回言及されており、天師道、李家道と並存した初期道派の一つであり、その…
李八百は蜀地の伝説上の仙人であり、人々が彼の年齢を八百歳と称したことからこの名を得た。一説には名を李脱ともいう。『神仙伝』には、彼が弟子の唐公房を試し、自分の腫れ物を吸わせたのち、ついに丹経を授けたと記される。葛洪『抱朴子内篇・道意』には、呉の地に李寛という者がおり、自ら李阿の徒、あるいは李八百の名を仮託し、「水をもって病を治す」と称し、士人の多くが帰依し、…
李阿は後漢末の蜀地の方士で、葛洪『神仙伝』に見える。伝えるところによれば、彼は常に成都の市中で食を乞い、得た銭や物はすべて人に施し、その容貌は数十年変わらず、蜀の人々は代々彼を見たため「八百歳公」と号したとされ、後世これが「李八百」の伝説と混同されるようになった。『神仙伝』には弟子の古強、李寛らが彼に従って道を問うたと記され、その応答の多くは顔色をもって意を…
劉安は漢の高祖の孫、淮南厲王劉長の子であり、文帝十六年(前164)に淮南王を襲封した。読書と琴を好み、賓客・方術の士数千人を招き集め、これらとともに『淮南鴻烈』(『淮南子』)内二十一篇・中八巻・外三十三篇を編纂した。現存するのは内篇のみである。同書は道家を主としつつ陰陽・儒・法の諸家を糅合しており、前漢の黄老道家思想を集大成した書物であって、その宇宙生成論・…
河上公は、漢の文帝の時代の隠士と伝えられる人物である。河畔に草庵を結び、『老子章句』を文帝に授けたことから河上公と称される。葛洪『神仙伝』には、文帝が老子の言葉を好みながらも理解できぬ箇所があり、使者を遣わして問わせたところ、河上公が『素書』二巻を授けたと記される。一方『史記・楽毅列伝』には戦国末に黄老の学を伝えた「河上丈人」なる人物が別に見え、後世これと混…
張良、字は子房は、漢初の建国の謀臣であり、留侯に封ぜられた。もとは韓の貴族で、秦が韓を滅ぼした後、博浪沙にて秦の始皇帝を狙撃したが失敗し、下邳に身を隠した。伝説によれば、圯上にて黄石公に出会い、『太公兵法』を授かったという。劉邦を輔佐して天下を定めた後は功成り身退き、自ら「願わくは人間の事を棄て、赤松子に従いて遊ばんのみ」と称して、辟穀・導引・軽身の術を学ん…
厳君平、本名は荘遵(後漢の明帝の諱を避けて「厳」に改める)、字は君平は、前漢末の蜀郡成都の人である。隠棲して仕えず、成都の市中で卜筮を業とし、毎日百銭を得て自活するに足りればすなわち店を閉じ簾を下ろして『老子』を読み、「勢いに因りてこれを善に導く」ことを旨とし、卜筮によって人に忠孝を勧めた。博く書を読み、老子・荘周の旨に依って『老子指帰』十余万言を著し、揚雄…
甘忠可は、前漢成帝の時代の斉の人で、方士である。『漢書・李尋伝』には、彼が『天官暦包元太平経』十二巻を作り、「漢家は天地の大終に逢い、まさに更めて天より命を受くべし。天帝は真人赤精子をして我にこの道を教えしむ」と宣言し、これをもって夏賀良・丁広世・郭昌らに教授したと記される。中塁校尉劉向は「鬼神を仮りて上を罔し衆を惑わす」と上奏し、甘忠可は下獄して病死した。…
李少君は前漢武帝の時代の著名な方士である。『史記・封禅書』と『漢書・郊祀志』の記載によれば、彼は「祠竈、穀道、却老の方」をもって漢武帝に見え、自ら「丹砂を化して黄金と為す」ことができ、黄金を鋳て飲食の器とすればいっそう長寿を得られ、さらに蓬萊の仙人を見ることができ、仙人を見た後に封禅を行えば不死を得られると称した。また彼はかつて斉の桓公の時代の銅器を識別した…
宮崇は、後漢の順帝の時代の琅邪の人で、方士于吉の弟子である。『後漢書・襄楷伝』には次のように記される。「初め、順帝の時、琅邪の宮崇、闕に詣り、その師干(于)吉が曲陽の泉水の上にて得たる神書百七十巻を上る。皆縹白素、朱介青首朱目にして、『太平清領書』と号す。その言は陰陽五行を家となすも、巫覡の雑語多し。有司、崇の上りし所は妖妄不経なりと奏し、乃ちこれを収蔵す。…
于吉(干吉とも作る)は、後漢末の方士で、琅邪の人である。『後漢書・襄楷伝』には、彼が曲陽の泉水の上で「神書」百七十巻、すなわち『太平清領書』を得て、弟子の宮崇がこれを順帝に献じたと記される。『三国志・孫策伝』注に引く『江表伝』には次のように記される。「時に道士琅邪の于吉なる者あり、先に東方に寓居し、呉会を往来し、精舎を立て、香を焼き道書を読み、符水を制作して…
張衡、字は霊真は、張陵の子であり、五斗米道の第二代首領で、道教では「嗣師」「嗣天師」と称される。後漢の科学者張衡とは同名の別人である。『三国志・張魯伝』には、ただ「陵死し、子の衡その道を行う。衡死し、魯また之を行う」とあるのみで、事跡はきわめて簡略である。道書は、彼が父の道を継ぎ、盟威の法を謹んで守り、栄利を慕わず、光和二年(179)に陽平山(一説に鶴鳴山)…
張魯、字は公祺、張陵の孫、張衡の子で、五斗米道第三代の指導者であり、道教では「系天師」と称する。初平二年(191)、益州牧の劉焉の派遣を受けて張脩とともに漢中を攻め、後に張脩とその配下を殺してその衆を併せ、漢中に近三十年にわたって拠り、政教一致の政権を樹立した。彼は自ら「師君」と号し、初めて入信した者を「鬼卒」、道を受けて久しく信を得た者を「祭酒」とし、祭酒…
張角は後漢末の鉅鹿の人で、太平道の創立者であり、黄巾の乱の指導者である。『後漢書・皇甫嵩伝』によれば、彼は黄老道を奉じ、「弟子を畜養し、跪拝して過ちを首(もう)し、符水と呪説をもって病を療し、病者はやや癒え、百姓これを信向す」とあり、自ら「大賢良師」と称し、弟子八人を四方に遣わして善道をもって天下を教化し、十余年の間に信徒は数十万に及び、青、徐、幽、冀、荊、…
張宝は張角の弟で、太平道の指導者の一人であり、黄巾の乱に際して自ら「地公将軍」と称した。中平元年(184)、兄の張角、弟の張梁とともに蜂起した。張角の病死後、張宝は軍を率いて下曲陽(現在の河北省晋州)に拠ったが、同年十一月、皇甫嵩と鉅鹿太守の郭典によって撃破され、戦死し、その部衆十余万人が殺され、皇甫嵩は「京観を城南に築いた」。史書における張宝個人の事跡につ…
張梁は張角の弟で、太平道の指導者の一人であり、黄巾の乱に際して自ら「人公将軍」と称した。張角の病死後、張梁は主力を統率して広宗(現在の河北省威県)に拠り、中平元年(184)十月、皇甫嵩と激戦し、初め優勢であったが後に敗れ、張梁は戦死し、黄巾軍三万余人が斬られ、五万余人が河に身を投げて死んだ。皇甫嵩はさらに張角の棺を暴いてその屍を戮し、首を京師に伝えた。張梁の…
魏伯陽は後漢の錬丹家で、会稽上虞の人、号は雲牙子。葛洪『神仙伝』によれば「高門の子にして、性は道術を好み、仕官を肯ぜず、閑居して性を養う」とあり、弟子を率いて山に入り丹を錬った。著書『周易参同契』三巻は、『周易』の卦爻、黄老思想、炉火の術という三者を相参照させ、「大易・黄老・炉火の三道は一に由る」とし、陰陽の消長、坎離・鉛汞をもって丹法を象徴しており、後世「…
陰長生は後漢の方士で、葛洪『神仙伝』に見える。伝えるところによれば、彼は漢の和帝の陰皇后の一族の子弟であり、家柄は富貴でありながら道を好み、馬鳴生(一に馬明生に作る)が太清神丹の秘訣を得たと聞いて、弟子の礼をもってこれに従うこと二十余年、同行した者の多くが去っていく中で陰長生だけは怠らず、馬鳴生はついに青城山中で『太清神丹経』を授けたという。その後、彼は武当…
後漢の桓帝劉志が在位した期間(146–168)における祠老子の活動は、老子が哲人から宗教的尊神へと転じる上での重要な標識である。『後漢書・桓帝紀』『祭祀志』には次のように記される。延熹八年(165)正月、桓帝は中常侍左悺を苦県(今の河南鹿邑)に遣わして老子を祠らせ、同年十一月にはさらに中常侍管霸を苦県に遣わして祭を致させた。延熹九年(166)七月、桓帝はみず…
左慈、字は元放、後漢末の廬江の人で、著名な方士である。『後漢書・方術列伝』には「少くして神道あり」と記され、かつて曹操の宴席で銅盤の中から松江の鱸魚を釣り上げ、また姿を隠し分身する術を能くし、曹操はこれを殺そうとしたが果たせなかったとされる。『三国志』注に引く『典論』には、房中の術に通じ、甘始、郗倹らとともに曹操によって魏に招致されたとある。葛洪『神仙伝』は…
葛玄、字は孝先、三国呉の丹陽句容の人で、葛洪の従祖にあたり、世に「葛仙公」「太極左仙公」と称される。『抱朴子内篇』と『神仙伝』によれば、彼は左慈より『太清丹経』『九鼎丹経』『金液丹経』を受け、さらに『三皇文』『五岳真形図』を得て、その術を弟子の鄭隠に授けたという。伝えられるところでは、彼はかつて閣皂山、天台山などで丹を錬り道を修めたとされ、呉の大帝孫権も彼を…
王弼、字は輔嗣、三国魏の山陽高平の人であり、正始玄学の代表的人物であって、二十四歳で没した。撰した『老子注』『老子指略』『周易注』『周易略例』は、「無を以て本と為す」「意を得て言を忘る」を綱領とし、『老子』を漢代の黄老政術や養生方術という文脈から引き離し、一つの本体論哲学として再構築した——万物は「無」を本とし、「有」は「無」から生じ、聖人は無を体して物に応…
范長生は一名延久、また九重ともいい、字は元。西晋末から成漢期にかけての天師道の指導者で、涪陵丹興の人である。世に博学多才と伝えられ、青城山に居し、当地の天師道信徒千余家の首領であった。「素より名徳あり、蜀の民に重んぜられる」と称された。永興元年(304)、李雄が成都を攻めて糧食に窮した際、范長生は糧食と軍需を提供して支援した。李雄が成都王・皇帝を称した後、范…
鄭隠は字を思遠といい、西晋の道士で、葛玄の弟子であり葛洪の師である。『抱朴子内篇・遐覧』によれば、鄭隠はもと大儒であったが、晩年に道を好むようになり、葛玄より『正一法文』『三皇内文』『五岳真形図』『洞玄五符』および『太清丹経』『九鼎丹経』『金液丹経』などを受け、蔵する道書は非常に豊富であった。葛洪は若い頃その門に学び、「篇籍を披渉し、三皇内文・五岳真形図をも…
梁諶は西晋の道士であり、楼観道の伝承系譜における重要な人物である。『楼観本起伝』『終南山説経台歴代真仙碑記』など楼観自身の文献によれば、梁諶は晋の恵帝の永興二年(305)前後に楼観で鄭法師(鄭履道)に師事し、『日月黄華上経』『洞神黄庭内景経』および水石還丹の術を授かり、その後終南山の楼観(伝えられるところでは尹喜が草を結んで楼を作り、老子が経を説いた地である…
郭象、字は子玄、西晋の河南の人であり、官は黄門侍郎・太傅主簿に至った、玄学中期の代表的人物である。撰した『荘子注』三十三巻は、今日伝わる『荘子』の定本である——郭象は向秀の旧注を基礎として内篇・外篇・雑篇を削定し、漢代に伝わった五十二篇本を三十三篇に裁定した。以後『荘子』はこの郭本によって世に行われ、他の古本はすべて失われた。『世説新語』には「郭象、向秀の注…
許遜は字を敬之といい、西晋豫章南昌の人で、道教浄明忠孝道が祖師と尊奉する人物であり、世に「許真君」「許旌陽」と称される。道書によれば、彼は呉の赤烏二年(239)に生まれ、若くして呉猛に従い道を学び、晋の太康元年(280)に孝廉に挙げられて蜀郡旌陽の令となった。政は清廉であり、災害の際には符呪をもって病を治し、租税を免じて民を恵んだ。晋室がまさに乱れんとするの…
鮑靚は字を太玄といい、東晋の方士で、官は南海太守に至った。『晋書・芸術伝』は彼を「学は内外を兼ね、天文河洛の書に明るし」と称する。かつて嵩山の劉君石室において『三皇文』を得、また陰長生(一説には左元放)に師事して尸解の術を受けた。葛洪が広州へ南下した際、鮑靚は「洪を見てこれを深く重んじ、娘をもって洪に妻せしむ」とあり、あわせて『三皇文』などを授けた。鮑靚の娘…
鮑姑は名を潜光といい、東晋の南海太守鮑靚の娘で、葛洪の妻である。中国医学史上記録に残る最古の女性灸法家の一人とされる。父に従って道を学び、後に葛洪に嫁ぎ、夫とともに羅浮山・広州一帯で修道し医を行った。とりわけ艾灸に精通し、越秀山産の紅脚艾をもって腫瘍・疣を治療するのに巧みで、「一灼すれば即ち消える」といわれた。嶺南の民間では彼女を「鮑仙姑」と称し、広州三元宮…
王凝之は、字は叔平、王羲之の次子で、謝道韞の夫であり、江州刺史・左将軍・会稽内史を歴任した。『晋書』は「王氏は代々張氏の五斗米道に仕え、凝之はいっそう篤かった」と記す。隆安三年(399)、孫恩が挙兵して会稽を攻めた際、王凝之は備えを設けず、「静室に入って祈祷し」、すでに「鬼兵」の援助を請い得たとして諸々の要衝を守れると称したが、結局城は陥落し殺害され、諸子も…
孫恩は、字は霊秀、東晋琅琊の人であり、「代々五斗米道を奉じた」。その叔父孫泰は銭唐の杜子恭に師事し、道術をもって民衆を惑わしたとして司馬道子に殺された。孫恩は海島に逃れ、隆安三年(399)、晋室の内乱に乗じて挙兵し、会稽を陥落させ、内史王凝之を殺害した。八郡が呼応し、その衆は数十万に達し、自ら「征東将軍」と称し、その徒衆は「長生人」と号した。彼は連年にわたり…
盧循は、字は于先、幼名を元龍といい、東晋末の天師道蜂起の指導者であり、孫恩の妹婿で、范陽盧氏の後裔である。孫恩の死後、盧循は首領に推され、元興二年(403)に広州を攻め、番禺を拠点として自ら平南将軍・広州刺史と称し、東晋は一時彼に官職を授けた。義熙六年(410)、劉裕が南燕への北伐に出た隙に乗じ、徐道覆とともに軍を率いて北上し、何無忌、劉毅を大破して建康に迫…
葛巣甫は東晋末の丹陽句容の葛氏一族の一員であり、葛洪の族孫、葛玄の従孫にあたる系統に属する。その事跡は主に陶弘景『真誥・叙録』に見え、「葛巣甫、霊宝を造構し、風教大いに行わる」とあり、隆安年間(397〜401)前後に、元始天尊が説法し葛玄を伝経の仲介とする一群の経典、すなわち後世にいう「古霊宝経」を作り出したことを指す。これらの経典は元始旧経と仙公新経の二系…
葛洪は字を稚川といい、自ら抱朴子と号した。東晋丹陽句容の人で、葛玄の従孫である。幼くして学を好み、家貧しく薪を伐って紙を買い求めたという。鄭隠より金丹の道を受け、また岳父の鮑靚にも学んだ。太安二年(303)、石冰の乱の平定に参加し、伏波将軍を授けられた。後に交趾に丹砂を産すると聞き、句漏の令となることを求め、子姪を連れて広州に至ったが、刺史鄧岳に留められ、羅…
王羲之は、字は逸少、東晋の著名な書家であり、官は右軍将軍・会稽内史に至り、世に「王右軍」と称され、後世「書聖」と尊ばれた。琅琊王氏は「代々張氏の五斗米道に仕えた」(『晋書・王凝之伝』)とあり、王羲之自身も天師道を篤く信じ、道士許邁と交遊し、服食・採薬を行った。「道士許邁とともに服食を修め、薬石を採るために千里を遠しとせず、東中の諸郡をあまねく遊歴した」とされ…
許謐は、一名穆、字は思玄。東晋の丹陽句容の士族で、官は護軍長史・給事中に至り、世に「許長史」と称された。彼は楊羲の降真活動の資助者であり、主要な受経者であった。興寧年間、楊羲は許家の邸宅で諸真の降誥を記録し、許謐とその子許翙は経を受けて書写し、『上清大洞真経』などの経訣を授かった。許謐は官職にあったが、篤く道教を信じ、晩年は茅山雷平山の麓に退隠して修道し、そ…
楊羲は字を義和といい、東晋上清派の実質的な創立者であり、上清経系を最初に伝出した人物である。もと呉の人で、家族に従い句容に移り住み、句容の士族許謐の門客となった。東晋の興寧二年(364)から太和五年(370)の間、彼は南岳夫人魏華存および多くの真人(王褒・茅盈・紫微夫人など)が降臨したと宣言し、口授された上清の経訣を、楊羲が工整な楷書で記録し、許謐・許翽父子…
許翙は、字は道翔、幼名を玉斧といい、許謐の第三子で、上計掾・主簿を務め、世に「許掾」と称された。彼は若い頃から道を好み、父とともに楊羲が伝授した上清経訣を受け、熱心に書写した。「掾の書はすなわち楊を学んだが、字体は勁利であった」とされ、その筆跡もまた陶弘景により『真誥』に収録されている。許翙はのちに茅山方隅山に隠棲して修行し、太和五年(370)に死去した。享…
陶弘景は字を通明といい、自ら華陽隠居と号した。南朝斉梁間の道士・学者で、茅山上清派の集大成者である。幼くして葛洪『神仙伝』を読み、すでに養生の志を抱いた。斉代には諸王の侍読を務めたが、永明十年(492)に官を辞して句容の茅山に入り、孫游岳に師事して経法を受け、楊羲・許謐の真跡を広く訪ね求めた。『真誥』二十巻、『登真隠訣』を撰し、上清の経系と伝承系譜を整理し、…
梁の武帝蕭衍と道教との関係は、信奉から捨棄へ、そして捨棄しつつも断絶しないという複雑な様相を呈している。彼は若い頃道を好み、天監三年(504)に『事李老道法を舎つるの詔』を下し、道を捨てて仏に帰することを宣言し、以後は仏教を大いに護持し、四度にわたり同泰寺に捨身するなど、南朝における崇仏の代表的存在となった。しかし彼と上清派の宗師・陶弘景との私的な交わりは生…
寇謙之は、字は輔真、北魏の道士であり、北天師道の改革者である。『魏書・釈老志』によれば、彼は若い頃から仙道を好み、張魯の術を修め、後に成公興に従って華山、嵩山に入り七年間修道した。神瑞二年(415)、太上老君が嵩山に降臨したと称し、「天師の位」および『雲中音誦新科之誡』二十巻を授けられ、「道教を清整し、三張の偽法、租米銭税および男女合気の術を除去せよ」と命じ…
崔浩、字は伯淵、清河崔氏の出で、北魏太武帝の代における中核的な謀臣であり、官は司徒に至った。彼の道教史上の意義は、嵩山の道士寇謙之を全力で支援した点にある。始光元年(424年)、寇謙之が『雲中音誦新科之誡』を携えて平城に至った際、朝野はこれを虚妄と疑ったが、崔浩ひとりこれを推重する上疏を行い、「辞旨深妙にして、古よりこれに比すものなし」と称し、みずから寇謙之…
北魏の太武帝拓跋燾(在位423―452)は、中国史上最初に道教を国教とした皇帝である。始光元年(424)、嵩山の道士・寇謙之が「道教を清整し、三張の偽法を除去する」ことを掲げた『雲中音誦新科之誡』を携えて平城に至り、司徒の崔浩の強い推挙によって重用され、太武帝は彼のために平城の東南に「天師道場」(五層の重壇)を設け、道士百二十人を養い、斎醮の法を行わせた。太…
宋文明は梁代の道士・道教学者で、梁の武帝の時代に活動したが、生没年は不詳である。『通門論』(一に『霊宝経義疏』とも)などを著し、霊宝経義と道教の教相判釈について多くの説を展開し、後世の『道教義枢』『一切道経音義妙門由起』などに大量に引用された。南朝道教教義学(「道教義学」)体系化の先駆者の一人である。敦煌文書には彼の『霊宝経義疏』の残巻(P.2256など)が…
孟智周は南朝梁の道士で、号を玄靖法師といい、生没年は不詳である。『玉緯七部経書目』を撰し、道経を三洞四輔(洞真・洞玄・洞神と太玄・太平・太清・正一)の七部に分類した。これは「三洞四輔」分類法が形成された画期的著作であり、この分類は唐宋以後歴代の『道蔵』に踏襲された。また『老子義疏』『道徳経注』などを著し、その説の多くは唐の成玄英・李栄らに引用され、重玄学の先…
周子良は字を元和といい、梁代の茅山道士で陶弘景の弟子である。年少にして山に入り陶弘景に仕え、天監十四年(515)より真人が降臨して経訣を授けると自称するようになり、その見聞を記録した。翌年(516)、自ら毒薬を服して「尸解」し没した。時に二十歳であった。陶弘景はその死後、彼の降真の記録を整理して『周氏冥通記』四巻に編み、注を加えた。周子良と真人との交流の詳細…
馬枢は字を要理といい、梁陳の際の学者・隠者で、博学にして文才に長け、とりわけ老荘に優れていた。梁の邵陵王蕭綸に学士として招かれ、後に茅山に隠棲した。陳朝が幾度も召し出そうとしたが応じず、太建十三年(581)に没した。『道学伝』二十巻を撰し、これは道教最古の道士伝記総集の一つで、晋宋以来の道士の事跡を記す。すでに散佚しているが、『太平御覧』『三洞珠嚢』などに多…
臧矜は南朝陳の道士で、上清派第十代宗師王遠知の師である(一説には王遠知と共に陶弘景の再伝弟子であるともいう)。『旧唐書・王遠知伝』には、王遠知が「弱冠にして宗道先生臧矜に師事」し道法を受けたと記される。臧矜は『老子』学に精通し、『道徳経疏』を撰した。唐代の重玄学者の多くがその説を引用しており、成玄英・李栄らの老子学もその影響を受けている。陳隋の際に南朝の玄義…
孫思邈、唐代の医薬学者にして道士、京兆華原の人。後世「薬王」として尊ばれる。生年には541年、581年など異説があり、通常はおおよそ581年とされる。永淳元年(682)に没した。若くして諸子百家に通じ、老荘を語ることを好み、太白山・終南山に隠棲した。隋の文帝、唐の太宗・高宗はたびたび彼を召したが仕えなかった(高宗の時に一度応召し、諫議大夫を授けられたが受けな…
岐暉は一名を平定といい、隋唐の際の楼観道の指導者である。隋の大業末、李淵が挙兵して隋に反すると、岐暉は「天道将に改まらんとす」と予言し、楼観道の食糧を傾けて唐軍を支援し、道士を率いて蒲津関に李淵の軍を出迎えた。唐の建国後、武徳三年(620)に高祖が自ら楼観に赴き、詔して楼観を「宗聖観」と改め、田千頃を賜った。岐暉は唐初において朝廷から最も厚遇された道士の一人…
成玄英、字は子実。唐初の道士で、重玄学の代表的人物である。生没年は史書に明記がなく、一般におおよそ608年から669年頃と推定される。貞観五年(631)、唐の太宗の召しにより京師に至り、「西華法師」の号を加えられた。永徽年間、事件により郁州(現在の江蘇省連雲港)に流されたが、その間も著述を絶やさなかった。彼が著した『老子道徳経開題序訣義疏』『南華真経疏』(『…
李栄、唐初の道士。号は任真子、綿州の人。成玄英と並んで重玄学の二大家と称される。高宗の顕慶・龍朔年間(656—663)に長安の東明観に住し、たびたび勅命により宮廷の仏道論争に参加し、僧の慧立・義褒らと激しく論じ合った。その事跡は道宣の『集古今仏道論衡』に見える。また盧照鄰・駱賓王ら文人とも交わりを持ち、盧照鄰には彼に贈った詩がある。彼が撰した『老子注』(『道…
黎元興、唐の高宗の時代の益州の道士で、李栄・方恵長らとともに四川の道教義学の人物である。顕慶三年(658)、高宗は僧道を内殿に召して義理を論じさせ、黎元興は僧の慧立・神泰らと「道が万物を生ず」という義について論争した。李栄も同時にこれに応対しており、その事跡は道宣の『集古今仏道論衡』および『続高僧伝』に記されている。彼は李栄・方恵長とともに『老子化胡経』の刪…
孟安排、唐の高宗・武周時代の道士で、青渓観に住した。生没年は不詳である。『道教義枢』十巻を撰し、自序によればすでに散逸した『玄門大義』二十巻を削って成ったものであるという。道徳義・法身義・三宝義・位業義・三洞義・七部義・十二部義・道性義・境智義・自然義など三十七条に分けられ、道教の基本的教義と経教体系を体系的に概括しており、現存する唐代道教教義綱要のうち最も…
薛季昌は唐代上清派の道士で、司馬承禎の弟子である。『南岳小録』『南岳総勝集』などによれば、司馬承禎より上清の経法を受けたのち南岳衡山の降真観に隠棲して修道し、その法を田虚応に伝え、田虚応は馮惟良に伝え、馮惟良は応夷節に伝えて、上清派の「南岳」伝承の一支を形成した。これは李含光の茅山伝承と並び行われた。玄宗はかつて召見し京師に留めようとしたが、固く辞して山へ帰…
呉筠、字は貞節。唐代の道士・文学者である。若くして経史に通じ、文をよくしたが進士に挙げられず、そこで嵩山に入り潘師正の弟子馮斉整に師事して正一の法を受け、のちに南のかた天台に遊び、李白・孔巣父らとともに剡中に隠棲し、「竹渓六逸」の友であった。天宝の初め、玄宗に召見され道法を問われると、「道に深き者は『老子』五千文に如くはなく、その余は徒に紙札を費やすのみ」と…
王旻は唐の玄宗の時の道士で、号を「太和先生」といい、洛陽の青羅山に居した。『茅山志』には、開元中に京師に召され、玄宗はその童顔鶴髪を見て大いに礼重したと記す。玄宗は茅山より出た楊羲・許謐・陶弘景の上清の真跡を得たが十三紙が欠けていたため、特に王旻に詔書と礼物を持たせて茅山紫陽観に赴かせ、李含光に補写を請わせた。伝えるところによれば『山居雑録』三篇を著したとい…
葉静能は唐の中宗の時の道士で、括州の人。葉法善の叔祖(一説に叔父)とされる。符籙の法術をもって中宗・韋后の寵信を得て、景竜年間に国子祭酒を務め、武后・中宗期に道士が政治に参与した代表的人物の一人であった。景雲元年(710)、李隆基と太平公主が政変を起こして韋后を誅すると、葉静能は韋氏の党与として殺された。敦煌変文には『葉浄能詩』(一に『葉浄能話』とも作る)が…
羅公遠は唐の玄宗開元年間の著名な道士で、葉法善・張果とともに玄宗朝の三大異人と並び称される。生涯の事跡は主に『太平広記』に引く『逸史』『神仙感遇伝』などに見え、正史に伝はない。伝えるところによれば、玄宗のために隠形の術を行いながら十分には授けなかったため、玄宗は怒って彼を殺したが、のちに蜀道で彼を見た者があったという。また葉法善・金剛三蔵と法を闘わせた話、玄…
張果は唐の玄宗の時の道士で、後世「八仙」の一人「張果老」の原型である。『旧唐書・方伎伝』は「いずこの人か知らず」と記し、中条山に隠棲して「みずから数百歳と称した」といい、武后・玄宗がしばしば召したが、開元二十一年(733)召に応じて洛陽に至り、玄宗が玉真公主を降嫁させようとしたが固く辞し、銀青光禄大夫を授かり「通玄先生」の号を賜った。のちに恒山へ帰ることを請…
張万福は唐の玄宗開元年間、長安太清観の道士で「三洞法師」と称された。生没年不詳。彼は経戒法籙を伝授する儀式を体系的に整理し、『伝授三洞経戒法籙略説』『三洞法服科戒文』『洞玄霊宝道士受三洞経誡法籙択日暦』『醮三洞真文五法正一盟威籙立成儀』『洞玄霊宝三師名諱形状居観方所文』など多種の科儀・戒律に関する著作を撰した。これらは唐初における正一・霊宝・上清など各段階の…
朱法満、法名君緒、唐代の道士。玄宗開元初年、長安の玉清観に住した。『要修科儀戒律鈔』十六巻を撰し、『太真科』『玄都律』『千真科』『太上科令』ならびに『本相経』『升玄経』などの六朝・隋唐の道経を広く引用し、道教の科儀・戒律・清規の条文を分類して輯録した。誦経・斎戒・法服・章表・道士の行為規範など各方面に及び、すでに散佚した初期道教の戒律科儀文献を大量に保存して…
史崇玄、唐の中宗・睿宗期の道士で、長安太清観の観主。中宗の神龍・景龍年間、太平公主の引き立てにより宮中に入り、「左道を以て進む」とされ、官は鴻臚卿に至り河内郡公に封ぜられた。睿宗の時には金仙・玉真の二公主の入道儀典を主宰したこともある。勅を奉じて両京の道士・学者とともに『一切道経音義』百十三巻(一説に百四十巻)を編纂し、また『妙門由起』六巻(現存するのは『一…
趙帰真、唐の敬宗・武宗期の道士。敬宗の宝暦年間、道術をもって宮中に入り、武宗の即位後(840)には再び召し出され、「釈氏を排毀し、中国の教にあらず、生霊を蠹耗すれば尽く除去すべし」と説き、衡山の道士劉玄靖や宰相李徳裕らとともに会昌の廃仏(845)を推進した。武宗は彼を「左右街道門教授先生」に封じ、宮中に望仙台を築いて彼が煉った金丹を服用した。会昌六年(846…
唐の高祖李淵は、唐一代を通じた「道先仏後」の国策を確立し、道教が中国において最高の政治的地位を得る出発点となった人物である。李唐挙兵の際、楼観道の道士・岐暉(一名平定)らが糧食を援助し、「天道まさに改まらんとす」と唱えて声望を高めた。武徳三年(620)、晋州の人・吉善行が羊角山(現在の山西省浮山)で白衣の老父を見たと称し、自ら「我は而が祖なり、我がために唐の…
潘師正、字は子真。唐代茅山上清派第十一代の宗師である。幼くして父を失い、隠棲して道に入り、王遠知に師事して上清経法および三洞隠訣符籙を得た。その後嵩山の逍遥谷に二十年余り住し、「ただ松葉を服し水を飲むのみ」であったという。唐の高宗と武后はたびたび嵩山に至って彼を召見し、必要とするものを尋ねたところ、「茂った松と清らかな泉こそ臣の必要とするところであり、この中…
葉法善、字は道元。唐代の著名な道士で、括州括蒼の人。四代にわたり道術を伝える家に生まれた。『旧唐書・方伎伝』は彼を「若くして符籙を伝え、とりわけ鬼神を厭劾するによくす」と称し、高宗の顕慶年間に召されて入京し、高宗・武后・中宗・睿宗・玄宗の五朝に歴仕し、睿宗の時に鴻臚卿を授かり越国公に封ぜられ、玄宗の時にはさらに銀青光禄大夫を拝した。彼は張易之の摘発、韋后と太…
尹文操、字は景先。唐代楼観道の道士で、みずから尹喜の後裔と称した。若くして道門に入り、楼観(宗聖観)に居して道経に博通した。高宗の時、勅により昊天観主となり、あわせて宗聖観の事を知り、『玉緯経目』の編修を主宰した。同書は道経七千三百巻を著録し、唐代における官修道蔵整理の重要な成果である。また『太上老君玄元皇帝聖紀』十巻(別名『玄元皇帝聖紀』)を撰し、老子の生…
王玄覧、本名は暉、字は玄覧。唐代綿竹の道士で、重玄学における重要な思想家である。四十七歳で道に入り、益州の至真観に住し、神会・僧敬らと交流した。武周の万歳通天二年(697)に没し、享年七十二であった。その弟子王太霄が彼の言論を輯録して『玄珠録』二巻を編み、『道蔵』に収められた。『玄珠録』は「道」と「物」、「心」と「境」を主要な論題とし、道体の常と無常、坐忘、…
唐の高宗李治は唐太宗の第九子で、649年から683年にかけて在位した。李唐は老子を祖と仰ぎ、高宗は崇道政策をさらに推し進めた。乾封元年(666)、泰山で封禅を行った後、みずから亳州の老君廟に至り、老子を「太上玄元皇帝」に追封した。これは老子が帝号を得た始まりである。上元元年(674)には王公百官に『老子』を学ばせ、科挙にも『老子』の試験を加えた。儀鳳三年(6…
司馬承禎、字は子微、法号は道隠、自ら白雲子と号した。唐代茅山上清派第十二代の宗師である。晋の宣帝の弟司馬馗の後裔にあたる。若くして学を好み、潘師正について上清経法・符籙・辟穀導引の術を受け、その後名山を遍歴し、長らく天台山玉霄峰に隠棲した。武則天、睿宗、玄宗が相次いで彼を召見し、睿宗は景雲二年(711)に陰陽術数と治国の道について尋ねたところ、「無為」をもっ…
賀知章、字は季真、晩年は四明狂客と号した唐代の詩人。武后の証聖元年(695)に状元及第し、官は秘書監・太子賓客に至った。天宝三載(744)、病により意識朦朧となったため、道士として度されて故郷に帰ることを上疏し、玄宗はこれを許して鏡湖剡川の一曲を賜い、その邸宅を「千秋観」とするよう命じた。皇太子は百官を率いて長安の東門で餞別し、李白には「送賀賓客帰越」の詩が…
李含光、もとの姓は弘といったが、孝敬皇帝李弘の諱を避けて李に改めた。唐代茅山上清派第十三代宗師である。神竜初(705)に度されて道士となり、開元十七年(729)に王屋山に至り司馬承禎から上清経法を受けた。承禎は彼を「真に玉清の客」と称し、承禎の没後は玄宗の命により陽台観に居した。天宝四載(745)、玄宗に召されて京に至り、伝籙の師となるよう請われ、勅により茅…
唐の玄宗李隆基は712年から756年にかけて在位し、唐代でもっとも道教を崇奉した皇帝で、その治世に道教は唐代の最盛期を迎えた。主な施策は次の通りである。開元九年(721)、司馬承禎より法籙を受けた。開元二十一年(733)には士庶の家に『老子』一本を蔵することを命じ、科挙に『老子』の策問を加えた。開元二十五年に玄学博士を置き、二十九年(741)には両京および諸…
李白、字は太白、青蓮居士と号した盛唐の詩人で、道教と非常に深い関わりを持つ。少年時代、蜀にて「五歳にして六甲を誦し、十歳にして百家を観る」といわれ、道士東岩子とともに岷山に隠棲した。二十歳前後、江陵にて司馬承禎と出会い、承禎は彼を「仙風道骨あり、ともに神游して八極の表に出づべし」と評し、李白はこれによって「大鵬遇希有鳥賦」を作った。彼は元丹丘・呉筠・賀知章ら…
施肩吾、字は希聖、号は東斎、入道後は棲真子と号した唐代の詩人・道士。元和十五年(820)に進士に及第したが、任官を待たずに東帰し、後に洪州西山(現在の南昌)に隠棲して修道し、「神仙不死の術を学んだ」という。『西山集』十巻があり、『全唐詩』には近二百首の詩が収められ、その多くは隠逸求仙を詠じたものである。『道蔵』に施肩吾の名で題される著作には『西山群仙会真記』…
唐の武宗李炎は840年から846年にかけて在位した。即位当初から道教を崇信し、道士趙帰真・劉玄靖ら八十一人を宮中に召して金籙道場を修させ、みずから法籙を受け、宮中に望仙台を築いて丹薬を服用した。会昌五年(845)、趙帰真・李徳裕らの推進により大規模な廃仏が行われ、寺院四千六百余所、招提蘭若四万余が破却され、僧尼二十六万余人が還俗を強いられ、寺田も没収された。…
崔希範、唐末五代の内丹家で、号は至一真人。生涯の詳細は不明であるが、一説に唐の僖宗の頃の人という。著した『入薬鏡』は三言韻語八十二句をもって内丹修煉の要旨を概説し、「先天の気、後天の気、これを得る者は常に酔えるがごとし」と説き、薬物・鼎炉・火候・採取・結胎などを論じ、簡約にして周到であり、内丹経典のうちもっとも精錬された作品の一つである。後世に注解が多く作ら…
呂洞賓、名は岩、字は洞賓、号は純陽子。道教内丹鍾呂派が奉じる祖師で、八仙のうちもっとも影響の大きな人物であり、民間では「呂祖」と尊称される。伝えるところでは唐末の河中府永楽の人で、あるいは貞元十四年(798)生まれともいう。唐の咸通年間に進士に挙げられたが及第せず、長安に遊んで鍾離権に遇い、「黄粱一夢」(一説に「十試」)を経て度化され終南山に入って修道し、金…
閭丘方遠、字は大方。唐末五代の道士。少年時より経史に通じ、廬山の陳元晤に師事し、後に天台山に至って劉処静より上清の経法を学び、上清派の系譜において重要な伝人となった。光啓年間(885—888)、余杭大滌山天柱観に住して広く弟子を集め、「四方の士、舟車の絶えざるに甚だし」といわれるほどであった。呉越王銭鏐はこれを尊礼し、唐の昭宗は「妙有大師玄同先生」の号を賜っ…
聶師道、字は宗微。唐末五代の道士で、歙州の人。若くして入道し、問政山の道士より経籙を受け、唐末には問政山に隠棲した。楊行密が淮南を拠点とすると広陵に召し出され尊礼を受け、「問政先生」の号を賜り、楊呉宮廷道教の領袖となって、弟子は五百余人に及んだ。彼はかつて南唐(呉)のために玄元宮・紫極宮などを建て、斎醮を伝授した。伝説では彼はかつて四明山にて仙に遇ったという…
武則天は唐高宗の皇后で、690年から705年にかけて帝を称し周を建てた。彼女と道教との関係は両面的である。若年には感業寺の尼であったが、皇帝を称するに及んでは仏教の『大雲経』を利用して符命を作り、「釈教は道法の上に在り」と明令して抑道崇仏の姿勢を取り、科挙における『老子』の試験を廃し、老子の「玄元皇帝」の尊号を罷めた(一説に武周期に限るともいう)。この間、道…
劉海蟾、名は操、字は宗成(昭遠・宗成とも)、号は海蟾子。五代の内丹家で、全真教北五祖の一人。道書によれば、もと燕地の人で、燕王劉守光に仕えて相となった(一説に遼に仕えて進士となったともいう)が、ある道人(一説に正陽子鍾離権、あるいは呂洞賓)に遇い、「累卵」の喩えでその立場の危うさを説かれ、ついに官を棄てて入道し、華山・終南山に遊んで鍾呂の丹法を得たという。伝…
譚峭、字は景升。五代の道士・思想家で、泉州の人。唐の国子司業譚洙の子である。幼くして聡敏で、経史に博く通じ、とりわけ黄老諸子および穆天子・漢武帝内伝・茅君列仙などの諸書を好み、仕官を望まず、終南・太白・太行・王屋・嵩・華・泰岳の諸山に遊歴し、嵩山の道士に十余年師事して辟穀養気の術を得た。著した『化書』六巻(道化・術化・徳化・仁化・食化・倹化)は「化」を核心の…
彭暁、字は秀川、号は真一子。五代後蜀の道士。永康の人で、蜀に仕えて朝散郎・金堂令となり、道術を好み、みずから真一子と号した。後蜀の広政年間(947年頃)、『周易参同契分章通真義』三巻を撰し、『参同契』を九十章に分けて注を施し、『明鏡図訣』を附した。これは現存最古の完全な『参同契』注本であり、内丹と外丹を兼ねた旨をもって解釈し、「丹を修むることは天地の造化と途…
譚紫霄は、五代の閩国および南唐の道士である。若くして道士となり、閩王王昶(康宗)に福州へ迎えられ、「金門羽客」「正一先生」の号を賜り、手厚い寵遇を受けた。閩の滅亡後は南唐に移り、廬山の棲隠洞に隠棲したが、南唐の後主李煜に召見され、「金門羽客」の号を賜って観を建ててもらい、そこに住した。『宋史』および『南唐書』によれば、彼は「頗る経史に渉り、善く人を閲す」とい…
陳摶、字は図南、自ら扶揺子と号し、五代宋初の著名な道士・隠士である。若くして進士に挙げられたが及第せず、そこで武当山九室岩に隠棲し、服気・辟穀すること二十余年に及んだ。その後、華山雲台観、少華石室に居を移し、「寝処するごとに、多くは百余日起きず」という状態であったと伝えられる。後唐の明宗は「清虚処士」の号を賜り、後周の世宗は飛昇黄白の術について問うたが、陳摶…
張無夢、字は霊隠、号は鴻蒙子は、北宋初の道士である。若くして華山に入り、种放・劉海蟾(一説)とともに陳摶を師とし、先天の学と内丹修養の法を授かった。後に天台山琼台観に隠棲して道を修め、真宗はかつて便殿に召して道を問い、『道徳経』を講じさせ、号を賜り官職を授けようとしたが、辞して山中に帰った。『琼台集』『還元篇』などの著があり、多くは内丹性命の説を論ずる。生没…
張君房、字は允方(尹方とも作る)は、北宋の道蔵編纂者である。景徳二年(1005)に進士に及第し、尚書度支員外郎、集賢校理などを歴任した。大中祥符五年(1012)、真宗の命により余杭に赴いて道蔵の校修を主宰し、王欽若の総領のもと『太清宝蘊』を基礎として蘇・越・台などの州の道経を収集し、数年をかけて『大宋天宮宝蔵』四千五百六十五巻を編み上げ、天禧三年(1019)…
饒洞天は、北宋初の道士で、撫州臨川の人であり、天心正法の創始者である。『上清天心正法・序』および南宋の鄧有功による『上清天心正法・序』によれば、彼はもと県吏であったが、淳化五年(994)に神人の導きを夢に見て、華蓋山にて地を掘り「天心正法」の秘籍(一説に石函)を得たため、吏を弃てて道士となり、譚紫霄の遺法を伝え、「三光正炁」「北極駆邪院」の符籙、天罡大聖およ…
賈善翔、字は鴻挙、号は蓬丘子は、北宋の道士で、蓬州の人である。神宗・哲宗の時、京師の太一宮、上清儲祥宮に相次いで住し、「崇徳悟真大師」となり、元祐年間(1086–1094)にはしばしば宮廷にて侍講した。彼は『猶龍伝』六巻を撰し、老子の降生・化胡・歴代の顕化および唐宋の帝王による尊崇の事跡を集め、宋代における老子伝記の代表作となった。後の謝守灝『混元聖紀』とと…
王老志、北宋徽宗の時の方士で、濮州臨泉の人である。もと転運司の小吏であり、親に事えて孝をもって知られた。「異人に遇いて丹を得た」とされ、家を捨てて草舎に隠居し、禍福を予言することで知られるようになった。政和三年(1113)、太僕卿王亹の推挙により都に入り、徽宗に召見され、「洞微先生」の号を賜り、蔡京の邸に居した(一説に観を建てたともいう)。予言の多くが的中し…
王仔昔、北宋徽宗の時の方士で、洪州の人である。初め儒生であったが、「自ら許遜に遇い、大洞隠書豁落七元の法を得た」と称し、未来を予知することができたとされる。政和年間に都に召され、「沖隠処士」の号を賜り、さらに「通妙先生」に進み、その寵遇は一時王老志の上をいき、権貴たちが争って擦り寄った。後に驕慢な振る舞いと内侍との結託、宮禁に関わる事件により、政和末(約11…
种放、字は明逸は、北宋初の隠士・学者である。若くして進士に挙げられたが及第せず、母とともに終南山豹林谷に隠棲し、講学を業として自ら雲渓酔侯と号した。かつて陳摶に学び、『先天図』『河図』『洛書』などの図書の学を伝授され、これをさらに穆修・李漑らに伝えたことで邵雍・周敦頤の一系を開くこととなり、陳摶の易学と宋代理学とをつなぐ鍵となる伝承者である。真宗の咸平五年(…
王欽若、字は定国は、北宋の大臣であり、二度宰相を拝し、「五鬼」の一人に数えられる。彼は真宗朝における「天書」封禅活動の主たる画策者であり、真宗に「神道設教」をもって契丹を鎮服する策を献じ、これによって大中祥符年間の天書・封禅・汾陰祀・聖祖降臨などの諸事が生じた。彼は勅命を奉じて道蔵の編修を主宰し、戚綸・陳堯佐・張君房らに順次校修させ、『宝文統録』『大宋天宮宝…
宋の真宗趙恒は、997年から1022年まで在位した。澶淵の盟(1004)の後、「四海を鎮服し、外国に誇示する」ため、王欽若・丁謂らの画策のもと「天書」の符瑞が大いに興された。大中祥符元年(1008)には天書が承天門に降ったと宣言して大中祥符に改元し、同年泰山にて封禅を行った。四年(1011)には汾陰にて后土を祀り、五年(1012)にはさらに聖祖趙玄朗が延恩殿…
張伯端、字は平叔、後に名を用成と改め、号は紫陽。北宋の著名な内丹家で、内丹派南宗の初祖(「南五祖」の筆頭)として尊ばれる。生年は984年説と987年説があり、元豊五年(1082)に卒した。伝によれば享年九十九であったという。若くして進士を業とし、三教の経書および刑法・書算・医卜・天文・地理の諸学を広く渉猟し、かつて府吏を務めたが、「火焼文書」の罪により嶺南に…
陳景元、字は太初、号は碧虚子は、北宋の著名な道教学者である。若くして建昌高安県の天慶観に入って出家し、のちに天台山の張無夢に学んで陳摶一系の伝を得、また鴻蒙先生から『道徳』『南華』の深旨を受けた。熙寧元年(1068)、神宗に召見され、自ら注した『道徳経』を進呈して「真靖大師」の号を賜り、建隆観に住して宮廷の道経を校訂するよう命じられ、北宋道教における官撰経典…
劉混康、字は志通、北宋茅山上清派第二十五代宗師。若くして入道し、茅山の毛奉柔より上清大洞経箓を受け、積金山(茅山積金峰)に居した。哲宗の紹聖年間(1094–1098)、符水をもって孟皇后(一説に太后)の病を治し、「洞元通妙先生」の号を賜り、茅山に元符観(後に元符万寧宮と改称)を勅建され、御書および九老仙都君玉印・玉圭・哈硯などを賜った。「茅山四宝」はここに由…
張商英、字は天覚、号は無尽居士。北宋の大臣・学者で、大観四年(1110)に宰相となり、翌年罷免された。三教に兼通し、仏教居士として著名であった(『護法論』を著す)が、道教にも深く通じており、『道徳経』『南華経』に注を施し、『金籙斎三洞讃詠儀』三巻、『続清涼伝』を撰した。また宋の徽宗の時期における道教の修建・崇奉のために力を尽くし、たとえば道蔵の編修を奏請し、…
林霊素、本名は霊噩。北宋の徽宗の時代の道士で、温州の人。神霄派の実質的な創始者である。若くして僧となり、のちに道士となって各地を遊歴し、「妖幻に善し」といわれた。政和五年(1115)、徐知常の推挙により徽宗に召見され、自ら神霄に通じることができると称し、徽宗を神霄玉清王「長生大帝君」の下生、蔡京を左元仙伯、自身を神霄府仙卿「褚慧」の下凡であると称した。これに…
宋の徽宗趙佶は1100–1126年在位し、中国史上最も道教を崇めた皇帝の一人である。即位後、劉混康・王老志・王仔昔・林霊素らの道士を信用し、政和年間に頂点に達した。政和三年(1113)より天下に神霄玉清万寿宮を遍く設け、政和七年(1117)には林霊素らの鼓吹によって自ら「昊天上帝元子」神霄玉清王「長生大帝君」の下生を名乗り、道籙院に「教主道君皇帝」として冊封…
薩守堅、号は「汾陽薩客」。宋代の著名な道士で、後世に「薩真人」「薩祖」と尊ばれ、張陵、葛玄、許遜とともに「四大天師」と並称される(一説に薩守堅が葛玄あるいは許遜に代わるとする)。『歴世真仙体道通鑑続編』などによれば、彼は蜀の西河の人(一説に山西汾陽)で、初め医を学んだが、薬を誤って人を死なせたことにより医を捨てて道を学んだ。三人の道人(のちに張継先、林霊素、…
石泰、字は得之、号は杏林、また翠玄子とも号した。内丹派南宗二祖である。『歴世真仙体道通鑑』などによれば、常州の人で、医薬をもって人を済い、報酬を受けず、ただ杏の木一株を植えさせるのみであったため、久しくして杏林をなし、それゆえ杏林と号した。伝説によれば、張伯端が罪を得て流罪となり邠州を経た際、石泰がこれを救い、張伯端はそこで金丹の道を授けたという。生卒年は道…
薛道光、名は式(一に道源とも)、字は太源、号は紫賢。内丹派南宗三祖である。もと僧であり、法号を紫賢といい、人々からは「毗陵禅師」と呼ばれ、参禅して悟るところがあった。後に宣和年間(一説に崇寧年間)、郿県で石泰に出会い、張伯端の金丹口訣を授かり、僧を捨てて道に入った。著した『還丹復命篇』は詩詞によって丹法を説き、また『悟真篇注』を撰した(一説に、今伝わる「薛注…
王文卿、字は予道(一に述道に作る)、号は冲和子。北宋末から南宋初にかけての神霄派雷法の宗師であり、世に「王侍宸」と称された。その伝記によれば、彼は各地を遊歴し、宣和初年に揚州において汪君(一説に火師汪真君)に遇い、飛神謁帝の道と雷法を授かり、のちに清真洞天において火師に遇い雷書を授かったという。宣和四年(1122)、徽宗に召見されて「冲虚妙道先生」の号を賜り…
路時中、字は当可。北宋末から南宋初にかけての天心正法系統の重要な伝人で、生没年不詳、おおむね十二世紀前半に活動した。彼が伝えた『無上玄元三天玉堂大法』三十巻は、みずから「玉堂真人」および北極駆邪院の法を得たと称し、饒洞天以来の天心正法を拡充して「玉堂大法」の一系を形成したもので、内容には考召・治病・駆邪・煉度などが含まれ、内煉と存神を行法の根本とすることを明…
陳楠、字は南木、号は翠虚、人には「陳泥丸」と呼ばれた。内丹派南宗四祖である。恵州博羅の人で、箍桶(桶の箍作り)を生業とし、常に土の泥丸をもって病を治したことからその名を得た。薛道光より太乙刀圭金丹の訣を受け、また黎姥山の神人より「景霄大雷琅書」を得て雷法を兼修した。これは南宗の内丹と雷法が結合する端緒となった。徽宗の政和年間(一説)、都に入って道録院事を務め…
彭耜、字は季益。福建福州の人で、白玉蟾の入室弟子である。『歴世真仙体道通鑑続編』によれば、彼は若い頃より学を修め博学であったが仕官せず、福州において白玉蟾に遇い、金丹の訣と雷法を受けて家を捨てて修道し、福州の鶴林靖に居した。白玉蟾はかつて彼のために『鶴林靖銘』を作った。彭耜は師の説を輯録し、『海瓊白真人語録』と『道徳真経集注』などを編した。白玉蟾の著述が後世…
留元長、字は長源、号は紫元。福建の人で、白玉蟾の弟子である。嘉定年間に白玉蟾に従って遊学し、白玉蟾はかつて彼のために『紫元問道集序』を作り丹法を伝授した。その自述と白玉蟾の語録によれば、彼はたびたび師に丹道、雷法および内外丹の別を問い、白玉蟾の『快活歌』『修仙弁惑論』などの篇の多くはその問いに答えて作られたものである。留元長は師弟の問答を輯めて『海瓊問道集』…
金允中は南宋の霊宝派道士で、生没年不詳、おおむね十三世紀前半に活動した(その著書の自序には嘉定十六年、すなわち 1223 年の年紀がある)。著した『上清霊宝大法』四十五巻は、南宋霊宝科儀のもう一つの大きな総まとめである。金允中は霊宝の古法を厳守すべきことを主張し、斎醮と内丹・雷法とを過度に混淆することに反対し、書中でしばしば当時の東華派や天心・神霄の諸法が「…
何真公は南宋初期、西山玉隆万寿宮の道士で、浄明道の先駆的人物である。諱と生没年は不詳。『浄明忠孝全書』などの記載によれば、南宋建炎二年(1128)、金軍が南下した際、何真公は西山で許遜の降臨を祈り、みずから許遜より『飛仙度人経』『浄明忠孝大法』を授けられたと称して「浄明大法」を立てて世に伝え、「忠孝」と「浄明」を宗旨とし、あわせて斎醮符籙を行い、「浄明道」の…
翁葆光、字は淵明、号は無名子、南宋の道士で、生没年は不詳、おおよそ孝宗・光宗の頃に活動した。彼は張伯端の『悟真篇』における最も重要な早期の注釈家であり、その著した『悟真篇注釈』(また『紫陽真人悟真篇注疏』とも題される)三巻、及び『悟真篇直指詳説三乗秘要』『悟真篇注疏直指詳説三乗秘要』などは、内丹南宗の丹法解釈の基本的枠組みを構成している。翁注の核心をなす主張…
蒋叔輿、字は元甫。浙江永嘉の人で、南宋の霊宝派における著名な科儀家である。かつて地方の小官を務めたのち隠棲して修道し、王契真と同門の留用光に師事した。留用光が伝えた霊宝黄籙斎法を基礎とし、陸修静・張万福・杜光庭以来の斎儀の伝統を参照して、『無上黄籙大斎立成儀』五十七巻を編み、嘉定年間に成った。同書は体例が整然としており、黄籙斎の各次第における壇図・儀文・章表…
白玉蟾、本姓は葛、名は長庚。祖籍は福建閩清で、琼州に生まれた。幼くして神童の誉れがあったが、のちに挙業を捨てて道に入り、陳楠(陳泥丸)に師事して金丹と雷法の伝を得た。江南、両広、閩浙の諸山を遍歴し、晩年は武夷山の止止庵に居して、彭耜、留元長らと教団を結成し、靖治を立て法籙を伝えた。これにより張伯端以来一脈単伝であった南宗内丹学が初めて組織的な宗教集団を形成し…
黄舜申、名は応炎。福建建寧の人で、清微派の実質的な集大成者であり、清微派第十代宗師と尊ばれる。幼少期に父の任地である広西に随い、南畢道に遇って清微雷法を得た。上清・霊宝・道徳・正一の四派の法を「清微に会帰させ」、教典を整理して「清微は内煉を本とし、雷法をもって物を済う」という宗旨を確立し、清微派を地方の道法から元代江南で最も影響力のある道派の一つへと押し上げ…
劉玉、字は頤真。江西南昌の人で、元代浄明道の実質的な創立者である。若くして儒書を読み、のちに西山玉隆万寿宮において道門に入り、みずから度々許遜・胡慧超の降授に遇い「浄明忠孝大法」を得たと称した。至元二十年(1283)前後より布教を始め、南宋の何真公一系による「浄明忠孝」の教えを再興し、繁を削り簡に就いて「忠孝廉慎、正心誠意」を教えの綱とし、「浄明は正心誠意に…
張宗演は龍虎山第三十六代天師である。南宋末に教を継ぎ、至元十三年(1276年)元軍が江南を平定した後、フビライの召しに応じて大都に至った。フビライは玉芙蓉冠・組金無縫服を賜い、「江南道教を主領する」よう命じ、銀印を賜い、「演道霊応冲和真人」の号を授けた。龍虎山天師はこれによって正式に江南諸派の符籙道教を統領する地位を得、正一教が南方道教を総括する体制がここに…
王志坦、河南湯陰の人で、全真教第九代掌教。少年にして出家し、丘処機の弟子に師事し、後に張志敬に仕えた。1270年、張志敬が没すると掌教を継承したが、ちょうど全真教が仏道の争いに敗れ元朝の圧力を受ける低迷期にあたり、彼は慎重かつ重厚をもって知られ、教団の存続を守り、在位わずか二年で1272年に没した。祁志誠に位を伝えた。王志坦の事跡は「終南山重陽宮碑」および『…
於道顕、山東寧海の人で、全真教第二代の著名な道士、王処一の弟子。金末、山東・河北一帯で布教し、後に雲州に隠棲して清修苦行をもって知られ、弟子のうちには後の全真掌教祁志誠がいる。著した『離峰老人集』は全真早期の重要な詩文集であり、多くは清静修心の旨を闡発している。1232年に卒した。彼は全真教が山東から山西北部へと拡大する上で重要な伝播者であった。その詩文の多…
蕭抱珍、河南衛州の人で、金代太一道の創立者。碑伝によれば、天眷年間(1138—1140)、みずから神人より「太一三元法籙」を授かったと称し、符籙をもって病を治し邪を駆ることを主な布教の手段とし、衛州に太一堂(後に太一広福万寿宮と改称)を建てて、信衆は日ごとに増えた。金の熙宗の皇統八年(1148)、宮中に召見され、観額「太一万寿観」を賜った。太一道は「三元法籙…
王重陽は全真教の創立者である。関中の富家に生まれ、若くして文武の科挙に応じたが仕途は思うにまかせず、正隆四年(1159)、みずから甘河鎮で異人(後世これを鍾離権・呂洞賓とする)に遇い口訣を授けられたと称し、家を捨てて修道した。まず南時村で「活死人の墓」を掘って独居し、のちに劉蒋村に移って庵を結んだ。大定七年(1167)、庵を焼いて東へ赴き山東寧海に至り、馬鈺…
劉徳仁、滄州楽陵の人で、金代真大道(初めは「大道教」と称した)の創立者。伝えるところでは皇統二年(1142)、白髭の老翁(後世には老子の化身とされる)に遇って『道徳経』の要旨を授かり、ついに教を立てたという。「物を視ること己のごとくし、戕害凶悪の心を萌すなかれ」「君に忠、親に孝、人に誠」「力耕して食し、人に乞わず」など九条を教規とし、自食其力を主張して符籙・…
酈希誠、元初真大道第五代掌教。金末、真大道は分裂し、その一支は酈希誠が率い、元の憲宗(モンケ・ハーン)の支持を得た。憲宗はかつて「太玄真人」の号を賜い、北方の大道教団を統べさせ、正式に教名を「真大道」と定めた。これは他の一支と区別するためであった。酈希誠は燕京に天宝宮を設けて教団の中心とし、教務を拡大し、その後、孫徳福・張清志らに位を伝えた。真大道は彼の後に…
張与材は龍虎山第三十八代天師、張宗演の次子である。1294年、兄張与棣の後を継いで教を掌り、元の成宗の大徳八年(1304年)に「正一教主、三山の符籙を主領する」の号を加授され、龍虎山天師が龍虎・茅山・閣皂の三山の符籙を統轄する地位が正式に確認された。「正一教」の名はここに正式に定まり、全真教と並び立つ二大道派の一つとなった。武宗の時にはさらに金紫光禄大夫・留…
張嗣成は龍虎山第三十九代天師、張与材の長子である。1317年に教を継ぎ、「翊元崇徳正一教主」に加封され、集賢院道教事を知った。教を掌ること三十年近く、たびたび元朝廷のために祈祷・設醮を行い、正一教の勢力は江南で極めて盛んであった。張嗣成は書画・詩文を兼ね得意とし、とりわけ龍・竹を描くことで著名であった。また『道徳経』に注して『道徳真経章句訓頌』を著し、正一天…
牧常晁は元代の全真道士であり、生没年・出身地は不詳。おおよそ13世紀末から14世紀初頭にかけて活動し、全真教が江南に伝わったのちの世代の人物に属する。著書『玄宗直指万法同帰』七巻は、問答と図説の形式によって性命双修の理を説き明かし、儒釈道三教は「万法同帰」であると主張し、あわせて禅宗と理学の話頭を援用して内丹を解説しており、元代江南における全真教三教合一思想…
姫志真、陝西臨潼の人で、元代の全真道士。儒家の出身で経史に博く通じ、中年で出家し、清和真人尹志平に師事し、後に祁志誠らに重んじられ、長く終南山重陽宮および関中の教務を主宰した。彼は詩文をもって世に名高く、著書に『雲山集』八巻があり、詩・詞・賦・序・記などの体裁を備え、多くは全真教義と宮観の営建に関わり、元代の全真教が関中で行った活動を研究する上で重要な資料と…
元の世祖クビライは道教に対して「全真を抑え、正一を扶ける」という二本立ての政策を取り、これによって元代の道教の様相が深く変えられた。憲宗八年(1258)、彼は命を受けて開平で仏道の大論争を主宰し、焦点は全真教が刊行した『老子化胡経』『老子八十一化図』の真偽にあった。全真側は樊志応ら十七人が論争に敗れ、髪を剃り僧となることを強いられ、占有していた仏寺を返還させ…
祁志誠、山西大同の人で、全真教第十代掌教。少年時、於道顕に遇って出家入全真し、長く雲州(現在の山西一帯)に住んで修道し、医を行い世を済うことと勧善をもって知られ、「祁真人」と称された。1272年、王志坦に代わって掌教となり、二十余年にわたって在位し、ちょうど元世祖の時代にあたった。彼は人となり寛厚で、仏教との関係はしだいに緩和し、元朝による全真教への制限もし…
張志敬、河北安次の人で、全真教第八代掌教。幼くして出家し、李志常に師事した。1256年、李志常が没すると掌教を継承したが、折しも仏道の争いが激しさを増す時期にあたり、1258年には道衆を率いて忽必烈が主宰する開平大論争に参加した。全真側は敗れ、経典を焼かれ、寺院を仏教に返還することを強いられ、全真教は大きな打撃を受けた。以後、彼は教規を厳格に守り、元気の回復…
雷思斉、字は斉賢、江西臨川の人。宋末元初の学者である。宋の滅亡後、儒を棄てて道士となり、烏石観に居し、後に三十六代天師張宗演の招聘を受けて龍虎山で講学し、呉澄らと交わった。彼は『周易』と老学に専精し、『易図通変』『易筮通変』を著し、北宋以来の河図洛書の説に反対して、考証・弁別は厳密であった。また『老子本義』を撰し、理性的な態度で『道徳経』を解釈した。雷思斉の…
張正常は龍虎山第四十二代天師であり、元の至正年間に教を嗣いだ。明の太祖が挙兵した際、いち早く帰順し、洪武元年(1368)に朱元璋が皇帝を称すると、直ちに参内して謁見した。太祖は「天にどうして師があろうか」との理由から「天師」の号を「真人」に改め、「正一嗣教護国闡祖通誠崇道弘徳大真人」の号を授け、正二品の秩をもって天下の道教事を掌らせた。以後、明代の龍虎山掌教…
張国祥は龍虎山第五十代天師であり、隆慶・万暦年間に掌教した。万暦三十五年(1607)に神宗の命を奉じて『道蔵』の続修を行い、『万暦続道蔵』百八十巻を編み、『正統道蔵』に漏れたものおよび明代に新たに出た道書を収録し、『正統道蔵』と合わせて今日伝わる『道蔵』五千四百八十五巻となった。彼はまた『漢天師世家』続本の編纂を主宰し、『皇明恩命世録』を撰して明代歴朝が天師…
白雲霽、字は明之、号は在虚子、南京の人。明末の道士で、生没年は不詳。天啓六年(1626)に『道蔵目録詳注』四巻を撰し、『正統道蔵』と『万暦続道蔵』の全経典を編目・提要したもので、三洞四輔十二類の順に配列し、部ごとに巻数と内容の大要を注記した。これは『道蔵』の初めての完全な提要目録であり、『四庫全書』子部道家類に収められ、清代以前の学者が『道蔵』を理解するため…
孫汝忠は、明代の内丹家で、『金丹真伝』の撰者である。生没年は不詳であるが、おおむね万暦年間に活動した。同書の自序と序跋によれば、その父孫教鸞(号は玄玄子)は早年に道を訪ね、李虚庵の一系より法を得て、後にこれを汝忠に授けたという。汝忠は父の学を承け、万暦四十三年(1615)前後に書を成し、全十六章に詩訣を附す。『金丹真伝』は「三元丹法」を立論の中心とし、命を先…
明太祖朱元璋は明代における道教管理の基本制度を確立した人物であり、その姿勢は「その教えを用いてその人を制す」というものであった。洪武元年(1368)、彼は第四十二代天師張正常を召見し、「天にどうして師があろうか」との理由から「天師」の封号を廃し、代わりに「正一嗣教真人」を授け、位を二品として天下の道教事務を掌らせた。この制度は明末まで用いられた。同時に道教を…
張宇初は龍虎山第四十三代天師であり、明代の天師のうちで最も学識に富んだ人物であった。洪武十一年(1378)に教を嗣いだ。儒釈道三家に広く通じ、宋濂ら士大夫と交わり、著述も豊富であった。撰した『道門十規』は、明代道教が教団を整頓し道士の行為を規律するための重要な綱領であり、道士は「清静修持」し戒律を固く守るべきであるとし、道を借りて利を謀ることに反対した。また…
周思得は浙江杭州の人であり、明初の著名な道士で、王霊官法を得意とした。永楽年間、成祖は「霊官法」の霊験あらたかなことを理由に彼を召して入京させ、北征に随行させたところ、しばしば祈祷に験があり、この上ない信任を受けた。宣徳・正統年間には「崇教弘道高士」を歴賜され、京師の大徳観・顕霊宮を主宰して宮廷のために設醮祈祷を行い、明初における朝廷道教の中核人物の一人とな…
朱棣、明の太祖の第四子。靖難の変によって帝位を奪った後、明の第三代皇帝となり、年号を永楽とした。真武大帝が靖難の変を「陰に佑けた」との名目のもとに真武を大いに崇奉し、永楽十年(1412)以降、軍民三十余万を動員して十数年をかけ武当山に九宮八観・三十六庵堂などの宮観群を営建し、「大岳太和山」の勅封を与え、張三丰の弟子孫碧雲や隆平侯張信らに工事を監督させた。これ…
張宇清は龍虎山第四十四代天師であり、張宇初の弟にあたる。永楽八年(1410)に教を嗣いだ。兄の未完の事業を継承して『道蔵』の編修を引き続き主宰し、また幾度も京師に召されて祈祷や設醮を行った。張宇清も経史に通じ、文臣たちと唱和することが多く、『西壁文集』を著した。宣徳二年(1427)に京師にて卒した。『道蔵』の編修は正統九年(1444)に至って刊行を完成し、こ…
張彦頨は龍虎山第四十八代天師であり、弘治十七年(1504)に教を嗣いだ。弘治・正徳・嘉靖の三朝を歴任し、道教を崇めた嘉靖帝からたびたび京師に召されて設醮を行い、龍虎山上清宮などが勅により建立され、正一教は嘉靖朝において再び尊崇を得た。張彦頨は邵元節とともに嘉靖前期における道教の朝廷代表であったが、その地位は邵元節・陶仲文ほどの権勢には及ばなかった。1550年…
朱厚熜、明の第十一代皇帝、年号嘉靖、在位四十五年、明代において最も道教を篤く崇めた君主である。即位後は道教を篤信し、邵元節・陶仲文を相次いで寵任し、斎醮を盛んに行い、大臣に「青詞」を作らせたことから「青詞宰相」という語も生まれた。自ら「霊霄上清統雷元陽妙一飛玄真君」などの道号を名乗り、丹薬を服用し、晩年の二十余年は朝政を執らずに西苑に住んで修玄に耽った。彼は…
林兆恩、字は懋勲、号は龍江は、福建莆田の人で、三一教(夏教、三一門とも称する)の創始者である。仕官の家に生まれ、十八歳から二十八歳の間に幾度も科挙に落第したため、ついに挙業を棄てて身心の学に専念し、儒釈道三家をあまねく訪ね、三十歳を過ぎてから「三教合一」を唱え、嘉靖三十年(1551)より正式に徒を収めて講学した。その学は儒を立本とし道を入門とし釈を極則とする…
黄元吉、名は裳、江西豊城の人。清代道光・咸豊年間の内丹家で、生没年は不詳である。その門人の記すところによれば、道光末年に四川富順(一説に自流井)において「楽育堂」を設けて十数年にわたり講学し、『道徳経』と内丹の学をもって門人に授け、その講稿は弟子によって輯録され『楽育堂語録』『道徳経講義』『道門語要』などとなった。黄元吉は「中黄直透」を主張し、「性命双修」を…
張遇隆は、龍虎山第56代天師であり、雍正年間に教を継いだ(父の早世により、一時は叔祖父が代行した)。乾隆四年(1739)から十二年にかけて、乾隆帝は「天師」の称号が僭越であるなどの理由により、天師の朝覲を停止させ、天師の秩を正一品(一説に二品)から正五品へと引き下げた。正一教の清廷における地位はこれにより明らかに低下し、龍虎山における地方的な権威のみを保つこ…
董徳寧は、清の乾隆年間の内丹学者であり、生涯は詳らかでない。著書『周易参同契正義』(乾隆年間成立)と『悟真篇正義』は、清修の立場から丹経を解釈することを主張し、明確に陰陽採戦の説に反対しており、その注解は平明で条理立っており、清代における『参同契』『悟真篇』の注釈の中でも比較的広く流布したものである。両書は『道貫真源』『道蔵精華』などの叢書に収められている。…
朱元育は、号を雲陽道人といい、清初康熙年間の龍門派内丹家であり、生没年は詳らかでない。かつて龍門派の高道に師事し、江浙一帯に住した。著した『周易参同契闡幽』(康熙八年、1669)と『悟真篇闡幽』は、清修の立場から『参同契』と『悟真篇』を体系的に解釈し、章句ごとに丹道の原理を敷衍しており、後世、清代における最も詳細な二部の丹経注解の一つとみなされている。清代の…
彭定求は、江蘇蘇州の人で、康熙十五年(1676)の状元であり、官は侍講に至った。清初の著名な理学者であり、『全唐詩』の編纂官の一人でもある。彼は道教を篤く崇敬し、とりわけ呂祖を重んじ、『道蔵輯要』初編を編纂し、『道蔵』および蔵外の道書から経典、丹経、善書など約二百余種を選輯した。これは清代における最も重要な道教叢書であり、その後蔣予蒲による増補を経て、嘉慶年…
張継宗、龍虎山第五十四代天師。康熙十七年(1678)に教を襲い、清初の正一天師の中でも比較的康熙帝の礼遇を受けた人物である。たびたび勅命により入京して祈祷・設醮を行い、康熙帝はかつて御書・御馬を賜り、光禄大夫を加授して、清初における正一天師の地位を一時高めた。康熙五十四年(1715)に没した。その後天師の職権は乾隆年間に五品に降格され、正一教の地位は次第に衰…
婁近垣、上海松江の人。清代正一派において最も高い地位を得た道士である。若くして龍虎山に入り、五十五代天師張錫麟の法師となった。雍正五年(1727)、天師に随って入京し、雍正帝のために「祟を駆る」醮を設けて効験があったことから深い信任を得て、「妙正真人」を賜り、四品龍虎山提点に封ぜられ、大光明殿(欽安殿)の道教事務を主宰し、あわせて京師の正一道士を管掌した。雍…
張錫麟は、龍虎山第55代天師であり、康熙五十四年(1715)に教を継いだ。雍正五年(1727)、勅命により入京して祈祷を行うこととなり、法師の婁近垣を伴って同行したが、その途上(一説には入京後)病没した。享年わずか二十九であった。雍正帝は祭祀を賜り、婁近垣を大いに信任するようになった。正一教はこれにより、婁近垣を通じて雍正朝において比較的高い地位を得ることと…
柳華陽、江西南昌の人。清代の僧にして内丹家、伍柳派の代表的人物である。乾隆元年(1736)に生まれ、若くして出家して僧となり、自ら皖水双蓮寺において伍守陽に出会い丹法を伝えられたと称し、それゆえ仏家の身分をもって道教の内丹を修めた。『慧命経』(1794)と『金仙証論』(1790)を撰し、書中では図解と仏典の語彙をもって煉精化気・周天火候などの法を説き、「仙仏…
陳銘珪は、字を友珊といい、広東東莞の人で、清代の挙人であり、文人であるとともに道士でもあった。晩年は羅浮山酥醪観を主宰した。彼が著した『長春道教源流』八巻(光緒五年、1879年序)は、全真教および龍門派の歴史を体系的に考証した最初の専著であり、碑銘、方志、『道蔵』の文献を広く採用し、王重陽、七真および歴代の伝承を考証するとともに、伝説と史実を弁別しており、陳…
ジェームズ・レッグ(James Legge)は、スコットランド出身の宣教師・漢学者で、ロンドン伝道会の会員であった。若い頃はマラッカの英華書院を主宰し、のちに校を香港に移した。1876年にオックスフォード大学初代漢学教授に就任した。『中国経典』(The Chinese Classics、1861年—1872年)によって四書五経を体系的に英訳し、西洋漢学の基礎…
傅勤家、民国期の学者で、生涯についての資料はきわめて少ない。著した『中国道教史』(商務印書館、1937)は中国最初の完全に通貫した道教通史であり、道教の起源、張陵の創教、魏晋南北朝、隋唐、宋元明清から民国に至るまでを扱い、あわせて道教の経典・教義・儀式・派別を叙述し、日本の学者小柳司気太・常盤大定らの研究を参考にしている。分量は大きくないが、長らく中文学界で…
許地山、筆名は落華生。台湾台南の人で、現代の作家・宗教学者。アメリカのコロンビア大学、イギリスのオックスフォード大学に留学し、宗教史とサンスクリット語を研究し、燕京大学・香港大学の教授を歴任した。その『道教史』(上冊、1934)は、中国の学者が現代の学術的方法によって著した最初期の道教史の著作の一つで、主に道教が成立する以前の道家と方術の源流を論じ、あわせて…
李叔還、民国から現代台湾の道教人士・学者、生没年不詳。1949年以降台湾で道教教務と研究に従事し、中華民国道教会理事などを歴任、長年にわたり『道教大辞典』(1979年台北巨流出版、後に何度も再版され大陸版とネット版もある)を編纂し、道教の神祇・人物・経典・用語など数千条を収録、中華圏でも早期の総合的道教辞典であり、長らく教内外の参照資料となった。ほかに『道教…
陳攖寧、安徽懐寧の人。近代における最も重要な道教改革者にして仙学の提唱者。幼くして儒医を学び、病を機に道を学び、1912年以降上海白雲観の『道蔵』を通読した。1930年代には上海で『揚善半月刊』『仙道月報』を主編し、「仙学」の概念を提起して、神仙修煉の学を宗教から独立させ、科学的態度をもって養生・内丹を研究すべきだと主張し、「仙学救国」を唱えて、その影響は国…
陳垣、広東新会の人。現代の著名な歴史学者であり、宗教史学の基礎を築いた人物の一人で、輔仁大学・北京師範大学の学長を歴任した。彼は「古教四考」で名高く、道教方面の代表作は『南宋初河北新道教考』(1941)である。金元期の全真・大道(真大道)・太一三派の興起・伝承と政権との関係を体系的に考証し、碑刻を広く採集し、方法は厳謹であり、全真教史研究の基礎を築いた。また…
蒙文通、四川塩亭の人で、現代の著名な史学者・経学者。四川大学教授。若い頃、廖平・劉師培に学び、経史に博く通じ、1940年代より道教・道家文献の研究に転じ、青城山の道士易心瑩と交流し、『輯校成玄英道徳経義疏』『輯校李栄老子注』『校理老子成玄英疏』など唐代重玄学の文献を整理し、『晩周仙道分三派考』『陳碧虚与陳摶学派』『坐忘論考』『道教史瑣談』などの論文を著し、道…
張恩溥、龍虎山第六十三代天師、1924年に襲職した。民国期に正一教はすでに官の地位を失っていたが、彼はなお天師府を主宰し、上海正一道教総会などを興した。抗日戦争期には江西・上海を転々とし、1949年に国民政府に随って台湾へ移り、龍虎山を離れた最後の天師となった。台湾では台湾省道教会(1950年)、中華民国道教会(1966年)を創立して理事長を務め、授籙・伝度…
湯国華(1910—2004)は、香港の実業家・慈善家・道教指導者であり、長らく円玄学院主席、香港道教連合会主席(会長)を務め、香港六宗教指導者座談会の主席も務めた。円玄学院は1950年に創設され、「三教合一」を趣旨とし、彼の主宰の下、宮観・養老・教育・葬儀など社会サービスを一体化した大規模な宗教団体へと発展し、たびたび大陸の宮観修復や道教文化活動に資金を寄進…
陳蓮笙、上海の人、正一派道士で、道教世家の出身、幼少より経懺科儀を習い、1930年代にはすでに上海の著名な道士であった。1949年以降道教組織の仕事に従事し、1956年に中国道教協会の設立準備に参加、文革後は上海道教の恢復を主宰し、上海市道教協会会長、上海城隍廟住持、中国道教協会副会長を歴任、上海道教学院と『上海道教』誌を創設、1995年に上海で正一派初の公…
マスペロ(Henri Maspero)、フランスの漢学者、コレージュ・ド・フランス教授、ヨーロッパにおける道教研究の創始者。エジプト学者ガストン・マスペロの子であり、若くしてフランス極東学院に勤務、1920年よりコレージュ・ド・フランスの中国語言文学講座教授を務めた。マスペロは『道蔵』を体系的に利用して道教を研究した最初の西洋人学者であり、道教の養生術(「養…
福井康順は日本の道教学者で、早稲田大学教授、日本道教学会創立(1950)時の会長を務め、戦後日本の道教研究を牽引した人物である。著書『道教の基礎的研究』(1952)は『老子』『列子』『太平経』『抱朴子』など道教初期文献の成立と源流を考証したもので、日本の道教研究の礎を築いた著作である。『道教』全三巻(1983、山崎宏・木村英一・酒井忠夫との共編、中国語訳版『…
王沐は、河北出身、現代の内丹学者であり、中国道教協会研究室研究員であった。若い頃は法律を学び、余暇に丹道を研究し、陳攖寧一系の仙学と山西龍門派丹法を師承した。1980年代、中国道教協会において研究と教育に従事し、中国道教学院の教学にも参与し、『悟真篇浅解』(1990)、『内丹養生功法指要』を著し、『道教文化』を主編するなどした。現代語で『悟真篇』を体系的に解…
蕭天石は、湖南邵陽出身、若い頃は軍事と哲学を学び、1949年に台湾へ渡り、自由出版社を創設し、道教典籍の出版で知られた。彼は『道蔵精華』十七集数十冊を主編し(1956年より順次出版)、『道蔵』および蔵外丹経から歴代の内丹・養生の要籍を選りすぐって収録した。その多くは大陸では入手困難なものであり、台湾・香港澳門および海外華人社会における丹道の伝播に極めて大きな…
カルテンマルク(Max Kaltenmark)、オーストリア系フランスの漢学者、マスペロの弟子で、フランス高等研究実習院(EPHE)第五部門「中国宗教」講座教授。マスペロの遺著を整理・出版し、パリの『道蔵』研究計画の初期の仕事を主宰し、施舟人、索安(アンナ・ザイデル)、イザベル・ロビネらの世代の道教学者を育成し、フランス道教学派の実質的な創始者とみなされてい…
王明、浙江楽清の人で、中国社会科学院世界宗教研究所研究員、中国における現代道教研究の基礎を築いた人物の一人。1930年代、北京大学を卒業し、湯用彤に師事し、長く道教文献の整理と思想史研究に従事した。代表作『太平経合校』(1960)は、欠損した『太平経』と『太平経鈔』などから全書を再構成したもので、初期道教を研究する上でもっとも基本となる整理本である。『抱朴子…
酒井忠夫は日本の歴史学者で、筑波大学名誉教授、日本道教学会会長を務めた。明清期の善書研究で知られ、著書『中国善書の研究』(1960年、増補版1999~2000年)は『太上感応篇』『文昌帝君陰騭文』『功過格』など勧善書の成立・伝播、および三教合一・庶民倫理との関係を体系的に研究したもので、この分野における開拓的な古典であり、中国語訳も大きな影響を与えた。また中…
大淵忍爾は日本の道教文献学者で、岡山大学名誉教授。敦煌道経と初期道教経典の研究で知られ、『敦煌道経目録編』(1978年)と『敦煌道経図録編』(1979年)を編み、敦煌道教写本を体系的に著録・影印したことは、敦煌道教文献研究の基礎的な工具書となった。著書に『道教史の研究』(1964年)、『初期の道教』(1991年)、『道教とその経典』(1997年)があり、『老…
窪徳忠は日本の道教学者で、東京大学東洋文化研究所教授(名誉教授)、日本道教学会会長を務めた。庚申信仰の研究で知られ、著書『庚申信仰の研究』(1961年)では、三尸・守庚申の習俗が中国道教から日本・沖縄へ伝播した過程を考察した。また沖縄や東南アジア華人社会における道教と民俗を長年にわたり調査し、『中国の宗教改革――全真教の成立』(1967年)、『道教史』(19…
陳国符、江蘇常熟の人で、化学者(ドイツ・ダルムシュタット工科大学博士)にして道教文献学者、天津大学教授。彼は科学者の身分をもって『道蔵』を研究し、1949年に『道蔵源流考』を出版し、歴代の道蔵の編纂・刊刻・流伝と構造、および道教経典の成書年代と真偽を体系的に考証した。道蔵学の開山の作と称され、施舟人(Kristofer Schipper)の『道蔵通考』などそ…
黎遇航、江蘇句容の人。全真道士で、茅山の出身。少年時に茅山元符万寧宮で出家し、抗日戦争期には茅山の道観が新四軍に協力したが、彼もこれに関与した。1949年以降は道教の組織活動に従事し、1957年に中国道教協会の創立に参与して副秘書長・副会長を歴任し、1980年に協会が活動を再開すると会長(第三・四期)に選出され、1992年まで在任した。改革開放後の道教復興期…
任継愈、山東平原の人で、哲学史家・宗教学者、中国社会科学院世界宗教研究所の創設所長(1964年)、後に国家図書館館長を務めた。彼はマルクス主義による宗教研究を提唱し、「儒教は宗教である」との説を主張する一方、道教研究をも大いに推し進めた。『中国道教史』(1990、上海人民出版社)を主編し、もっとも早期の体系的な道教通史の一つとした。『道蔵提要』(1991)を…
吉岡義豊は日本の道教学者で、大正大学教授。1940年代に北京の白雲観に滞在して調査を行い、白雲観道士の生活・清規・伝戒制度についての記録(『道教の研究』および『道教と仏教』に収録)は、民国末期の全真叢林に関する最も貴重な実地資料の一つである。戦後は道教経典と仏道関係の研究に専念し、『道教経典史論』(1955)、『道教と仏教』三巻(1959–1976)、『道教…
南懐瑾は、浙江楽清出身、現代の著名な国学講述者である。若い頃は四川で武術と禅を学び、袁煥仙に師事し、1949年に台湾へ渡り、長く儒仏道三家の典籍を講じ、晩年は香港と蘇州の太湖大学堂に居した。その道家道教関連の講録には『老子他説』『荘子諵譁』『列子臆説』『道家、密宗与東方神秘学』『我説参同契』『静坐修道与長生不老』などがあり、口語的な方式で道家思想と丹道修煉を…
秋月観暎は日本の道教学者で、弘前大学教授。浄明道研究で知られる。著書『中国近世道教の形成――浄明道の基礎的研究』(1978年)では、許遜信仰の六朝から宋元に至る変遷、何真公と劉玉による浄明道、およびその「忠孝」倫理と儒学との関係を体系的に考察し、浄明道研究の基礎を築いた著作として中国語訳も刊行された。また論文集『道教と宗教文化』(1987年)などを編み、日本…
李養正は江西南昌の人。中国道教協会研究室研究員で、長らく白雲観にて道教研究と教育に従事し、教団内の学統を代表する重要な学者である。1950年代より陳攖寧のもとで働き、中国道教協会初期の研究および『道協会刊』の編集に携わった。1980年代には中国道教学院教授を務め、『道教概説』(1989)、『道教与中国社会』『当代中国道教』『道教史略講』『仏道交渉史論要』『新…
湯一介は哲学者湯用彤の子で、北京大学哲学系教授、中国文化書院創院院長を務め、晩年は『儒蔵』編纂事業を主宰した。道教研究における代表作は『魏晋南北朝時期的道教』(1988)で、思想史および宗教学の観点から、魏晋南北朝期に道教が民間宗教から成熟した宗教へと転化していく過程を分析し、葛洪・寇謙之・陸修静・陶弘景らの思想、および道教と玄学・仏教との関係を論じており、…
卿希泰は四川三台の人。四川大学教授で、1980年に四川大学宗教学研究所(後の道教与宗教文化研究所)を創設した。これは中国の大学として最初の宗教学研究機関であり、卿希泰は長年その所長を務め、現代中国における道教研究の第一人者とされる。彼が主編した四巻本『中国道教史』(1988–1995、修訂本1996)は、これまでで最も規模が大きく体系的な中国語による道教通史…
張源先、江西貴渓の人、張恩溥の堂姪。1949年、軍に随って台湾に渡り、1969年に張恩溥が没すると、一族の推挙と道教会の承認により「第六十四代天師」を継承し、台湾南投などの地に嗣漢天師府を設け、四十年近くにわたり授籙・伝度・祈安醮事を主宰し、台湾正一教の象徴的人物となった。また東南アジア・香港・マカオへ何度も赴いて籙を伝えた。2008年、台湾にて逝去した。そ…
賀碧来(イザベル・ロビネ)、フランスの漢学者、プロヴァンス大学教授、フランス道教学派の中核メンバー。カルテンマルクに師事し、上清経と内丹研究で知られる。『上清の啓示と道教史』(La révélation du Shangqing dans l'histoire du taoïsme、1984年)全二巻は上清経典の形成と思想を体系的に考訂し、『道教の瞑想——上…
施舟人(クリストフェル・スキッパー)、オランダの漢学者、二十世紀後半における国際道教研究の最重要な学者。カルテンマルクに師事し、1962年から1970年まで台湾台南でフィールドワークに従事し、台南の正一派道長(陳栄盛など)から科儀を学び、1966年受籙して道士となり、内部から道教科儀を研究した最初の西洋人学者である。フランスに戻った後は高等研究実習院教授を務…
索安(アンナ・ザイデル)、ドイツの漢学者、カルテンマルクに師事し、博士論文『漢代道教における老子の神格化』(La divinisation de Lao tseu dans le taoïsme des Han、1969年)で後漢における老子の神格化と『老子変化経』などの文献を研究し、初期道教研究の古典となった。1969年以降長らく日本の京都のフランス極東学…
司馬虚(ミシェル・ストリックマン)、アメリカの漢学者、若くしてパリでカルテンマルク、施舟人に師事し、後にカリフォルニア大学バークレー校教授を務めた。上清経研究で知られ、博士論文と専著『茅山道教——上清啓示の年代記』(Le Taoïsme du Mao chan: chronique d'une révélation、1981年)で東晋の楊羲・許謐の降誥と上清…
王卡は中国社会科学院世界宗教研究所研究員、道教研究室主任を務め、現代中国における道教文献研究を代表する学者である。王明に師事し、長年道教文献学に従事、とりわけ敦煌道教文献の研究で知られる。著書『敦煌道教文献研究:綜述・目録・索引』(2004)は敦煌の道経を全面的に整理したもので、この分野の基本工具書となっている。ほかに『老子道徳経河上公章句』の校注(中華書局…
張継禹、江西貴渓の人。龍虎山張天師の家系第六十五代の裔孫(中国大陸側の呼称による)。1980年代に中国道教学院に学び、後に中国道教協会に勤務し、副秘書長・副会長を歴任し、中国道教学院副院長・全国人民代表大会常務委員を兼任した。長く道教文化研究、『中華道蔵』の編纂(常務副主編を務め、2004年出版)、『中国道教』誌の刊行を主導し、『天師道史略』を著し、正一教の…
蘇海涵(Michael Saso)はアメリカの学者で、元イエズス会士、ハワイ大学宗教学名誉教授。1960年代に台湾新竹で正一派の道長荘陳登雲のもとで科儀を学び授籙を受けた。当事者として台湾道教科儀を研究した最初期の西洋人学者の一人であり、『道教与宇宙更新的儀式』(Taoism and the Rite of Cosmic Renewal、1972)、『荘道長…
坂出祥伸は日本の道教および中国思想史学者で、関西大学名誉教授、日本道教学会会長を務めた。研究分野は道教養生思想、道教と科学、術数・方術であり、『中国古代養生思想の総合的研究』(編著、1988年)、『道教と養生思想』(1992年)、「気」と養生(1993年)、『道教と東アジア――中国・朝鮮・日本』(編著)、『中国思想研究――医薬養生・科学思想篇』などを著し、養…
張道禎、台湾の人。みずから張恩溥の孫と称し、第六十四代天師の身分をもって活動し、2008年に張源先が没した後、台北にて襲職を宣言し授籙を主宰した。張源先の系統に属する張意将らとはそれぞれ支持者を異にし、台湾における天師継承をめぐる多方面にわたる論争を形成した。大陸側では張継禹ら天師世家の後裔を代表とし、台湾側の嗣位は承認していない。この条は付録として、公開報…
テリー・クリーマン(Terry Kleeman)はアメリカの漢学者で、コロラド大学ボルダー校教授。初期天師道研究の専門家である。『文昌:一位中国神霊的転変』(A God's Own Tale: The Book of Transformations of Wenchang、1994)を著し、『梓潼帝君化書』と文昌信仰を翻訳・研究した。『大成:中国中古的一個道…
ラッセル・カークランド(Russell Kirkland)はアメリカの道教学者で、ジョージア大学宗教学名誉教授。唐代道教および道教史の方法論研究で知られる。若い頃には唐代道士の伝記と政治的役割を研究し、司馬承禎・杜光庭・唐代の女性道士らに関する論文を著した。専著『道教:永恒的伝統』(Taoism: The Enduring Tradition、2004)では…
宗樹人(David Palmer)はカナダ系の人類学者で、香港大学社会学系教授。現代中国の道教、気功、宗教社会学を研究する。『気功熱:中国的身体・科学与烏托邦』(Qigong Fever、2007)は1980–90年代の気功運動の盛衰と道教養生との関係を研究したもの。ヴァンサン・ゴーサールと共著で『現代中国的宗教問題』(2011)を著し、レヴェンソン賞を受賞…
スティーヴン・エスキルセン(Stephen Eskildsen)はアメリカの道教学者で、テネシー大学チャタヌーガ校教授。道教修行、苦行、内丹を研究する。『早期道教中的苦行主義』(Asceticism in Early Taoist Religion、1998)、『全真道教師父們的教義与実践』(The Teachings and Practices of th…
丁荷生(Kenneth Dean)はアメリカ系の学者で、かつてマギル大学教授を務め、現在はシンガポール国立大学中文系教授。長らく福建莆田などでフィールドワークを行い、道教と民間宗教を研究する。『道教儀式与中国東南的民間信仰』(Taoist Ritual and Popular Cults of Southeast China、1993)、『三一教主:中国東南…
志賀市子は日本の文化人類学者で、茨城キリスト教大学教授。香港・華南の道教、乩壇、呂祖信仰を研究する。著書『近代中国のシャーマニズムと道教――香港の道壇と扶乩信仰』(1999年、中国語訳『香港道教與扶乩信仰:歴史與認同』2013年)では、清末民初における広東の乩壇が香港の道堂(蓬瀛仙館、青松観など)へと発展した過程と、その宗教的アイデンティティの形成を考察し、…
黎志添は香港の道教学者で、香港中文大学文化及宗教研究学系教授、同大学道教文化研究センター創設主任を務め、香港における道教研究の中心的人物である。研究領域は六朝天師道、広東・香港道教史、道教科儀、『道蔵輯要』に及び、『広東地方道教研究――道観、道士及び科儀』(2007年)、『道教を理解する』、『香港道堂科儀の歴史と伝承』(共著)、『宗教研究と解釈学』などを著し…
游子安は香港の歴史学者で、珠海学院香港歴史文化研究センター主任・教授を務め、かつて香港中文大学などで教鞭を執り、明清の善書、呂祖信仰、黄大仙信仰、香港道堂の歴史を研究する。著書に『勧化金箴――清代善書研究』(1999年)、『善と人と同じくす――明清以来の慈善と教化』(2005年)、『香江顕迹――嗇色園の歴史と黄大仙信仰』(編著)、『道風百年――香港道教と道観…
蔡志祥は香港の歴史学者で、香港中文大学歴史学系教授(名誉教授)を務め、華南歴史人類学研究の代表的人物の一人であり、華南の地方社会、宗族、祭日、打醮儀礼を研究する。著書『打醮――香港の祭日と地域社会』(2000年)は、香港新界の太平清醮を対象に、道教の醮儀と地方社会の組織、宗族の権力との関係を分析した、香港における道教儀礼の社会史研究の古典である。労格文(ジョ…
小林正美は日本の道教学者で、早稲田大学名誉教授。代表作『六朝道教史研究』(1990年、中国語訳2001年)は霊宝経の成立、三洞説の形成、天師道と南朝道教との関係を体系的に考証し、多くの影響力ある時代区分・分類の見解を示した。『唐代の道教と天師道』(2003年)では唐代道教の主体は天師道であり、「三洞」経典はすべて天師道に摂取されたものであると主張し、学界に議…
朱越利は中国社会科学院世界宗教研究所研究員を経て、四川大学道教与宗教文化研究所教授・博士課程指導教員となり、中国宗教学会副会長も務めた。主に道教文献と道教史を研究し、代表作『道蔵分類解題』(1996)は現代的な分類法によって『道蔵』全体の解題を作成したもので、『道蔵提要』と並ぶ重要な工具書である。ほかに『道経総論』『道教考信集』『道教答問』を著し、『理論・視…
胡孚琛は、中国社会科学院哲学研究所研究員・博士課程指導教員であり、王明に師事し、主に道教内丹学と葛洪思想を研究した。著書に『魏晋神仙道教:〈抱朴子内篇〉研究』(1989)、『道学通論:道家・道教・仙学』『丹道法訣十二講』『道教与仙学』などがあり、『中華道教大辞典』(1995)を主編した。この辞典は現代における最大規模の中国語道教工具書の一つである。彼は「道学…
劉仲宇は、華東師範大学哲学系教授・博士課程指導教員であり、上海道教研究を代表する学者である。研究領域は道教符籙、道法・法術、道教文化であり、著書に『道教法術』(2002)、『道教授籙制度研究』(2014)、『中国道教文化透視』『道教の内秘世界』『正一道教研究』などがあり、とりわけ正一符籙、授籙制度、道教法術に関する体系的研究で知られる。上海道教界(陳蓮笙など…
勞格文(ジョン・ラガーウェイ)、アメリカ系フランスの漢学者、フランス高等研究実習院教授、後に香港中文大学中国研究センター教授を務め、ヨーロッパにおける道教と中国地方宗教研究の代表的学者。若くして『無上秘要——六世紀の道教類書』(Wu-shang pi-yao: somme taoïste du VIe siècle、1981年)を著し、『中国社会と歴史におけ…
李豐楙は台湾の道教学者で、政治大学宗教研究所講座教授、中央研究院中国文哲研究所研究員(名誉退職)を務め、台湾道教研究を牽引する人物である。本人も正一派の受箓道士である。研究領域は六朝道教文学と仙伝、道教科儀、台湾の民間信仰、道教と文学に及び、『六朝隋唐仙道類小説研究』『憂と遊――六朝隋唐遊仙詩論集』『許遜と薩守堅――鄧志謨道教小説研究』『神化と変異――ある「…
麦谷邦夫は日本の道教学者で、京都大学人文科学研究所名誉教授、日本道教学会会長を務めた。道教経典の文献学的・思想的研究で知られ、『老子想爾注索引』『真誥索引』『周氏冥通記索引』など多くの道教文献索引を編んだ。『真誥』研究班を主宰し、吉川忠夫と共編で『真誥研究――訳注篇』(2000年)を刊行し、陶弘景『真誥』の権威ある訳注として評価される。著書に『六朝隋唐道教思…
丁培仁は四川大学道教与宗教文化研究所教授・博士課程指導教員で、主に道教文献学と道教史を研究した。代表作『増注新修道蔵目録』(2008)は白雲霽『道蔵目録詳注』を基礎として、『道蔵』全体の経書の著者・年代・内容を改めて考訂したもので、現代における重要な道蔵工具書である。ほかに『道教典籍百問』『求実集:道教文献研究』を著し、『道教科儀文献集成』関連の整理を主編す…
王力平は、遼寧撫順出身、自らを全真龍門派第十八代伝人と称する。その弟子が著した伝記『大道行』(1991、陳開国・鄭順潮著)によれば、幼少期に三人の龍門派の老道士から秘かに内丹功法を伝授されたという。1980年代以降、国内外で「霊宝通智能内功術」などの丹道功法を伝授し、その英語版伝記 Opening the Dragon Gate は西洋の内丹修習者の間で広く…
柏夷(スティーブン・ボーケンカンプ)、アメリカの漢学者、アリゾナ州立大学教授(以前は長らくインディアナ大学に勤務)、アメリカ道教研究の代表的人物で、エドワード・シェイファーと施舟人に師事した。代表作『初期道教経典』(Early Daoist Scriptures、1997年)は『老子想爾注』『大道家令戒』『紫陽真人内伝』『霊宝経』など初期道経六種を英訳・詳注…
李遠国は、四川省社会科学院哲学・文化研究所研究員であり、四川道教研究のベテラン学者である。主な研究分野は道教内丹学、道教養生、四川道教史であり、著書に『道教気功養生学』(1988)、『四川道教史話』『神霄雷法:道教神霄派沿革与思想』『道教煉養方術』『中国道教気功養生大全』(主編)などがあり、うち『神霄雷法』は神霄派に関する専門研究である。また他者との共著に『…
傅飛嵐(フランシスクス・ヴェレレン)、ドイツ系フランスの漢学者、フランス極東学院(EFEO)研究員、2004年から2014年まで院長を務め、フランス金石文芸アカデミー会員。施舟人に師事し、博士論文で杜光庭を研究し、『杜光庭(850—933)——唐末五代の宗教と文学』(Du Guangting: taoïste de cour à la fin de la C…
詹石窗は福建厦門の人。四川大学道教与宗教文化研究所教授・博士課程指導教員で、厦門大学教授、四川大学老子研究院院長を歴任した。研究領域は道教文学、道教と易学、道教養生などにわたり、『道教文学史』『道教与女性』『易学与道教思想関係研究』『道教文化十五講』『道教科技与文化養生』などを著し、『百年道学精華集成』および『中国宗教思想通史』(道教巻)などの大型叢書を主編…
張沢洪は四川大学道教与宗教文化研究所教授・博士課程指導教員で、長らく道教科儀、および道教と西南少数民族の宗教を研究した。『道教斎醮科儀研究』(1999)、『道教神仙信仰与祭祀儀式』『道教礼儀学』『文化伝播与儀式象徴:中国西南少数民族宗教与道教祭祀儀式比較研究』などを著し、大陸における道教科儀研究を代表する学者であり、道教と少数民族宗教の関係研究の開拓者でもあ…
丸山宏は日本の道教学者で、筑波大学教授(名誉教授)。道教科儀と台湾正一教を研究する。1980年代より台湾・台南で正一教の道長に師事して科儀を学び、著書『道教儀礼文書の歴史的研究』(2004年、中国語訳は2019年前後に刊行)では、台南正一壇の「文検」(章表・牒札などの儀礼文書)を対象に、『道蔵』と現地調査資料を組み合わせて科儀文書の歴史的変遷を考察し、道教科…
リヴィア・コーン(Livia Kohn)はドイツ系アメリカ人の道教学者で、ボストン大学宗教学名誉教授。かつて京都大学人文科学研究所で長年研究に従事した。英語圏で最も多産な道教研究者であり、著書・編著は五十種を超え、道教の瞑想・坐忘・長生術・道教史・道教倫理・身体観にわたる:『道教冥想与長生技術』(Taoist Meditation and Longevity…
ファブリツィオ・プレガディオ(Fabrizio Pregadio)はイタリアの道教学者で、長らく中国の煉丹術と内丹を研究し、ヴェネツィア大学、スタンフォード大学、ドイツのエアランゲン=ニュルンベルク大学などで教鞭を執った。二巻本『道教百科全書』(The Encyclopedia of Taoism、2008)を主編し、国際的な学者による八百余の項目を収録した…
鄭志明は台湾の宗教学者で、輔仁大学宗教学系教授、南華大学宗教文化研究センター主任を歴任し、道教、民間宗教、新興宗教を研究する。『中国善書と宗教』『台湾民間宗教結社』『明代三一教主研究』『中国社会と宗教』『道教生死学』『台湾伝統信仰の宗教的解釈』など数十点の著作があり、善書、扶乩、鸞堂、民間教派、道教の生命儀礼まで広く扱い、台湾で最も著作の多い民間宗教・道教研…
康豹(Paul Katz)はアメリカの歴史学者で、台湾中央研究院近代史研究所特聘研究員。中国の民間宗教、道教、地方社会を研究する。『瘟神与神明崇拝:浙江的温元帥信仰』(Demon Hordes and Burning Boats、1995)、『多面相的神仙:永楽宮的呂洞賓信仰』(Images of the Immortal: The Cult of Lü D…
蓋建民は四川大学道教与宗教文化研究所所長・教授・博士課程指導教員で、卿希泰の弟子である。主に道教医学、道教科学技術思想、道教養生を研究し、『道教医学』(2001)、『道教科学思想発凡』『道教金丹派南宗考論』『道教医学導論』などを著した。このうち『道教金丹派南宗考論』は張伯端に連なる南宗の歴史と文献を体系的に研究したものである。卿希泰の後を継いで四川大学の道教…
張広保は北京大学哲学系教授・博士課程指導教員で、中国社会科学院歴史研究所研究員を歴任した。主に金元期の全真教、道教内丹学、道教思想史を研究し、『金元全真教内丹心性学』(1995)、『唐宋内丹道教』『金元全真教史新研究』『道家的根本道論与道教的心性学』などを著した。大陸における全真教研究を代表する学者の一人であり、『多重視野下的西方全真教研究』を主編して海外の…
郭武は四川大学道教与宗教文化研究所教授・博士課程指導教員で、雲南大学教授を歴任した。研究領域は浄明道、雲南道教、道教と地方社会にわたり、『〈浄明忠孝全書〉研究:以宋・元社会為背景的考察』(2005)、『道教与雲南文化』『道教歴史百問』などを著した。その浄明道研究は現代における同派に関する最も体系的な専著の一つである。以上は公開されている学術情報による。彼はま…
ヴァンサン・ゴーサール(Vincent Goossaert)はフランスの歴史学者で、高等研究実習院(EPHE)教授、同院宗教学部門長を歴任した、現代フランスにおける道教研究の第一人者である。博士論文では金元期の全真教創立を研究し(La création du taoïsme moderne: l'ordre Quanzhen、1997)、その後明清期および近…
焦曠は字を道広といい、北周の道士で、華山雲台観に隠棲し、後に西峰に廬を結んで修煉した。周の武帝はその道を敬い、しばしば山を訪れて教えを乞い、「三洞先生」の号を賜った。楼観の道士王延はかつて彼に師事し、「三洞秘訣真経を得た」という。焦曠は北朝の華山道教と楼観道とをつなぐ重要な人物であるが、その生没・事跡に関する史料は多くなく、主に『終南山説経台歴代真仙碑記』『…
韋節は北周の楼観道の道士で、厳達・王延らとともに「楼観道田谷十老」(一に「楼観十老」とも)の一員であり、北周武帝の時代に通道観に住した。老荘に精通し、『老子注』(『道徳経義疏』)を撰した。後世の重玄学者の多くがその説を引用し、隋唐間の道経『玄門大義』『道教義枢』にも取材されている。北周建徳年間の仏道論争に韋節も参加した。その生没年は不詳であるが、北朝楼観道が…
北周の武帝宇文邕は、道教史上「建徳に仏道を毀ち、通道観を立てた」出来事によって知られる。彼は天和年間より、儒仏道三教を何度も召集して弁論させ優劣を定めさせた(張賓、衛元嵩らの道士と仏教の僧が朝堂で対論し、甄鸞が『笑道論』を撰し、道安が『二教論』を撰したのはこの背景による)。建徳三年(574)五月、詔を下し「仏道二教を断ち、経像を悉く毀ち、沙門・道士を罷め、み…
鍾離権、字は雲房、号は正陽子。道教内丹鍾呂金丹派が奉じる祖師で、八仙の一人「漢鍾離」である。その人の実際の生涯は考証しがたく、一説に後漢の人であるがゆえに「漢鍾離」と称すといい、一説に五代の人ともいう。宋代以来の道書、たとえば『宣和書譜』『歴世真仙体道通鑑』は、彼を漢の将軍で、兵に敗れて終南山に入り東華帝君に遇って道を得、後に呂洞賓に道を伝えたとする。鍾離権…