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全真随山派Suishan Lineage of Quanzhen

別称
随山派, 劉祖派, 長生派
種類
支派
時代
金元より現代に至る
創立
劉処玄(1147年—1203年)を祖とし、元代に形成された
開祖
劉処玄
継承元
全真教
地域
山東半島(莱州・掖県)
存続
存続 — 全真七真の一派として今日なお字輩による伝承があるが、独立した宮観体系や多数の伝人を持たず、通常は他の全真支派とともに同一の叢林に共存している。

概説

随山派は全真七真の一人である劉処玄が開いた支派である。劉処玄は字を通妙、号を長生子といい、山東東莱(今の莱州)の人である。大定9年(1169年)に王重陽に師事し、重陽が仙逝した後は終南の劉蔣村で喪に服し、その後山東に帰って莱州武官荘一帯で道を伝え、霊虚観、太微観などを創建した。金の章宗承安2年(1197年)に都に召されて「至道」を問われ、「体玄大師」の号を賜り、七真の中でも比較的早くに朝廷の礼遇を得た一人となった。劉処玄には『仙楽集』『黄帝陰符経注』『無為清静長生真人至真語録』の著があり、その思想は「無為清静」「身心両忘」を要とする。その派を「随山」と称するのは、一説には「随縁・随時・随処」の意を取ったとされ、また一説にはその居所にちなんで名付けられたともいう。元の世祖は至元6年(1269年)に「長生輔化明徳真人」を追封した。随山派は元代の山東において一定の勢力を有し、弟子には于道顕、崔道演、趙道堅(後に龍門に帰す)、宋徳方(随山に属するとの説もある)らがいる。宋徳方は『玄都宝蔵』の刊行を主宰し、元代の道教文化における重大な事業となった。明清以後、随山派の規模は龍門派に遠く及ばなくなり、多くは全真叢林に附属する形で伝承された。今日でも道教内には随山派の輩字(「思道明仁徳、全真性復常……」)があり、随山派を自称する道士は山東や東北などの全真宮観に散見される。

核心教義

全真教の旨を受け継ぎ、清静無為を宗とし、「染まらず著せず」「心境両忘」を主張し、性命双修としながらも心を煉ることを重んじる。三教を兼ね融合し、とりわけ『陰符経』を引いて丹道を説く。劉処玄の語録は「心は物を逐わず」「諸相に著せず」を強調し、修行者は「随処にして安然たるべし」と主張しており、その思想は派の名の意味するところと合致する。その教風は全真七真の中でも「縁に随いて滞らず」として知られる。

修行と科儀

出家して観に住み、内丹の静坐、誦経、苦行修持を行うことは全真の各派と同じである。独自の輩字詩による輩の排列があり、全真叢林に随って三壇大戒を受ける。劉処玄自身は『陰符経』『道徳経』をもって弟子に授け、経典の講説と語録の記録を重んじており、全真教初期における経教活動の重要な一環をなした。その修行方式は全真の他の支派と基本的に同じである。

伝承

王重陽 → 劉処玄 → 于道顕、崔道演ら → 元代の山東・河北における伝承 → 明清以後は全真叢林に附属して字輩によって延続し今日に至る。元代の随山派は莱州・掖県などの地に宮観が多く、元の世祖はかつて劉処玄を追封し、その弟子の于道顕は『長生真人語録』を撰したが、明清以後の伝承の詳細の多くは考証できない。

主要経典

『黄帝陰符経』

代表的な人物

劉処玄, 于道顕, 宋徳方, 王重陽

主要宮観

崑崳山
参考文献
  1. 维基百科:刘处玄
  2. 《金莲正宗记》《七真年谱》(《正统道藏》)
  3. 卿希泰主编《中国道教史》第三卷第一章
  4. 道教之音:随山派
  5. 陈垣《南宋初河北新道教考》