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北周の武帝Emperor Wu of Northern Zhou

字・道号
宇文邕, 周の高祖
時代
北周
生没年
543 — 578
流派
楼観道
役割
崇道帝王宗教政策制定者
出身地
代郡武川
活動地
楼観台

生涯

北周の武帝宇文邕は、道教史上「建徳に仏道を毀ち、通道観を立てた」出来事によって知られる。彼は天和年間より、儒仏道三教を何度も召集して弁論させ優劣を定めさせた(張賓、衛元嵩らの道士と仏教の僧が朝堂で対論し、甄鸞が『笑道論』を撰し、道安が『二教論』を撰したのはこの背景による)。建徳三年(574)五月、詔を下し「仏道二教を断ち、経像を悉く毀ち、沙門・道士を罷め、みな民に還らしむ」とし、「三武一宗」の法難の中で唯一同時に仏道二教を禁絶した者となった。しかし同年、彼は「通道観」を立て、仏道二教の中で名の知られた学者百二十人を選んで「通道観学士」とし、「道徳真経を講じ」させ、二教の根本を研尋し、至道を探究させた。これは実質的に国家の学術機関という形式で宗教思想の資源を保存し統合するものであった。楼観道の道士・王延、厳達らは通道観に入って学士となり、勅を奉じて三洞の経書を校理し、『三洞珠嚢』を編集し、『無上秘要』の編纂にも参与した――『無上秘要』百巻は現存最古の道教の大型類書であり、まさに北周官方の手によるものである。建徳六年、北斉を滅ぼすと禁令は関東にまで及んだ。武帝はその翌年病没し、宣帝、静帝の時代に二教は次第に復興した。彼の政策は、道教が打撃を受けると同時に、経典整理という官方の機会を得るという結果をもたらした。

業績と影響

  • 建徳三年(574)に仏道二教を禁断し、三武一宗の法難の中で唯一二教を並せて禁じた者となった
  • 通道観を立て、二教の学士百二十人を選んで『道徳経』と至道を講習させた
  • 官方の主導により『無上秘要』百巻を編纂させ、現存最古の道教の大型類書となった
  • 楼観道の道士が通道観に入って三洞の経書を校理し、隋唐道教の経教統合を推し進めた
参考文献
  1. 《周书·武帝纪》
  2. 《历代三宝纪》《广弘明集》所收辩教文献
  3. 《道藏》所收《无上秘要》
  4. 维基百科“宇文邕”“通道观”条目