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秦の始皇帝Qin Shi Huang

字・道号
嬴政, 始皇帝
時代
生没年
紀元前259年 — 紀元前210年
流派
方仙道
役割
崇道帝王求仙者
出身地
趙国邯鄲
活動地
泰山

生涯

秦の始皇帝嬴政と道教との関係は、彼が燕斉の方仙道を受け入れ推し進めた点に集中している。『史記・秦始皇本紀』『封禅書』によれば、統一後、彼は五度にわたり東方を巡幸し、たびたび海上に至って仙を求めた。始皇二十八年(前219)には泰山にて封禅を行い、同年、斉の人徐福(徐巿)を遣わして童男女を率いさせ、海に入り蓬莱・方丈・瀛洲の三神山の不死の薬を求めさせた。また燕の人盧生・韓終・侯公・石生ら方士を用いて仙人と「不死の薬」を求めさせ、盧生は『録図書』を進めて「秦を亡ぼす者は胡なり」と称し、これが北方に長城を築く決断に直接影響を与えた。彼はまた鄒衍の五徳終始説によって自ら秦を水徳と定め、改元し、服色を改め、十月を歳首としたが、これは五行説が国家制度に取り入れられた最初の事例である。後に侯生・盧生が逃亡し誹謗したことにより、始皇帝は大いに怒り、咸陽の諸生四百六十余人を坑殺した(史に「坑儒」と称されるが、その中には方士も多く含まれていた)。始皇帝自身は道教の信徒ではなかった——この時代、道教はいまだ成立していなかった——が、その求仙活動は方仙道を地方の術数から国家的事務へと押し上げ、漢の武帝の一朝における求仙および後世の神仙信仰の基調を築いた。その東巡の刻石や徐福伝説もまた、道教および東アジアの民間叙事における長く続く母題となった。

業績と影響

  • 国家の力をもって方仙道の求仙を支援し、神仙信仰を政治の中心に持ち込んだ
  • 徐福を遣わして海に入り三神山の不死の薬を求めさせ、東アジアにおける神仙叙事の原点となった
  • 鄒衍の五徳終始説を採って秦を水徳と定め、五行の政治制度化の先駆けを開いた
  • 泰山にて封禅を行い、後世の帝王の封禅と山岳崇拝の礼制の枠組みを確立した

伝説

徐福が童男女三千人を率いて海に入り、「平原広沢」に止まって王となり戻らなかったという話(『史記・淮南衡山列伝』)、および後世の日本・朝鮮における徐福遺跡の伝説、安期生が棗を贈り蓬莱にて会おうと約したという話などは、いずれも伝説である。

参考文献
  1. 《史记·秦始皇本纪》
  2. 《史记·封禅书》
  3. 《史记·淮南衡山列传》
  4. 维基百科“秦始皇”条目