五斗米道Way of the Five Pecks of Rice (Wudoumi Dao)
- 別称
- 米道, 鬼道, 正一盟威之道, 天師道(初期)
- 種類
- 教派
- 時代
- 後漢
- 創立
- 後漢の順帝の漢安元年(142年、伝統的な説による)
- 開祖
- 張陵
- 地域
- 巴蜀、漢中(今の四川、陝西南部)
- 祖庭
- 鶴鳴山, 青城山
- 存続
- 他派に融合 — 「三張」期の教団としては張魯が魏に降ったことをもって終わったが、その制度と経籙は天師道—正一教として存続し、今日の正一派の直接の祖源である。
概説
五斗米道は後漢末に張陵(張道陵)が巴蜀で創立した道教教団で、入道する者が五斗の米を出さねばならなかったことからこの名がある。教内ではみずから「正一盟威の道」と称し、後世には天師道と呼ばれた。伝えるところでは漢安元年(142年)、張陵は鶴鳴山にて太上老君の降臨に感じて「正一盟威の道」を授かり、ついに二十四治を設けて布教区域とし、『老子』を主要な経典とし、『老子想爾注』を作り、祭酒を置いて道民を管理した。張陵の死後、子の張衡に伝わり、衡は子の張魯に伝えた。張魯は漢中を近三十年(およそ191—215年)にわたり占拠し、政教一致の政権を樹立した。義舎を設け、義米・義肉を置いて旅人が自由に取れるようにし、法を犯した者は三度赦した後にはじめて刑を行い、祭酒が官吏に代わった。建安二十年(215年)、張魯は曹操に降り、閬中侯に封じられ、多くの道民がこれに従って鄴城・長安・洛陽一帯に北遷し、五斗米道はこれによって巴蜀の地方教団から全国的な宗教へと拡大した。その後、天師道へと発展し、寇謙之・陸修静の改革を経て北天師道・南天師道に分かれ、最終的に正一教へと合流した。五斗米道は道教の多くの基本制度を確立した。授籙・治靖・祭酒・三官手書・斎戒思過などであり、道教教団制度の源流である。
核心教義
老子を太上老君として尊び、「道」を最高の信仰とし、『老子想爾注』は戒を守り、善を行い、精を保って長生することを重んじる。「道は生を設けて善に賞し、死を設けて悪を威す」との倫理規範を提起した。天・地・水の三官が功過を考校すると信じた。張魯の時代には黄老の政治理想を融合し、道をもって民を治める政治を行った。これらの観念は後世の正一教の倫理と神学の起点を構成している。
修行と科儀
入道の際には五斗の米を納めた。病者は姓名と服罪の意を記した三官手書を書き、一通は天に上げ、一通は地に埋め、一通は水に沈めた。祭酒が「静室」を主宰して思過させた。『老子五千文』を誦した。二十四治と祭酒の制度を設けた。「過度儀」「黄赤の道」(合気)などの初期の科儀を行った。張魯の時代には義舎を設け、寛刑を行った。
伝承
張陵→張衡→張魯(「三張」)。張魯が魏に降った後、教団は北へ遷った。魏晋期、天師道は北方と江南でそれぞれ発展した。北魏の寇謙之が改革して「新天師道」とし、劉宋の陸修静が南方の天師道を整理した。唐宋以降、龍虎山の張氏はみずから張陵の後裔と称し、正一教を形成した。五斗米道と天師道は史料の中でしばしば互いに呼び名として用いられるが、本サイトでは142—215年の巴蜀漢中期を本条に、それ以降を「天師道」に帰属させる。
主要経典
道徳経, 『老子想爾注』代表的な人物
張陵, 張衡(嗣師), 張魯, 張脩主要宮観
鶴鳴山, 青城山- 维基百科:五斗米道
- 《三国志·魏书·张鲁传》及裴松之注引《典略》;《后汉书·刘焉传》
- 卿希泰主编《中国道教史》第一卷第二章
- 饶宗颐《老子想尔注校证》,上海古籍出版社,1991 年
- Kristofer Schipper, The Taoist Body, University of California Press, 1993
- Terry Kleeman, Celestial Masters: History and Ritual in Early Daoist Communities, Harvard University Asia Center, 2016