上清派Shangqing (Highest Clarity) School
- 別称
- 茅山宗(後期), 上清経派, 茅山派
- 種類
- 教派
- 時代
- 東晋-隋唐
- 創立
- 東晋の興寧二年から太和年間(364-370年)にかけて楊羲が上清経を降授された
- 開祖
- 魏華存, 楊羲, 許謐, 許翽
- 地域
- 江南句容茅山一帯、唐代には全国に及ぶ
- 祖庭
- 茅山(句曲山)
- 存続
- 他派に融合 — 元代に三山符籙は正一教に統合され、上清派は独立した教派としては消滅したが、茅山道院は今日に至るまで「上清宗壇」を自任し上清の法籙を伝えている。現在の茅山道院は正一派に属し、江蘇道教の中心である。
概説
上清派は東晋中期、江南の士族の間に出現した新道派であり、崇める『上清経』にちなんで名付けられ、のちに茅山を中心としたことから茅山宗とも称される。陶弘景の『真誥』によれば、興寧二年(364年)以降、句容の道士楊羲は南岳夫人魏華存ら衆真が降臨し、上清の諸経を口授したと称し、楊羲は端正な書法でこれを書き出し、許謐・許翽父子に伝え、初期の上清経典『上清大洞真経』『黄庭内景経』など三十余巻が形成された。その後、許黄民・馬朗・馬罕らによって書写が重ねられ、その間、王霊期が経文に増竄を加え、上清経は江南に広く流布した。劉宋の陸修静はこれを「洞真部」に列し、三洞の首位に置いた。南斉・梁の間、陶弘景は茅山に隠棲し、楊・許の真跡を収集して『真誥』『登真隠訣』を撰し、華陽館を建て、茅山を祖庭とする伝承を形成し、後世に上清第九代宗師として追尊された。唐代に至り上清派は隆盛を極め、王遠知・潘師正・司馬承禎・李含光が相次いで宗師となり、高宗・武后・玄宗の厚い礼遇を受け、司馬承禎が提唱した「坐忘」論は後世に深い影響を及ぼした。上清派は存思・誦経・内視を重んじ、符籙斎醮を軽んじており、士族知識階層の道教の形態を代表するものであった。その存思守一、身中の神を内観する方法は、のちの内丹学が成立する条件を準備した。宋代以降、茅山上清は龍虎山正一、閣皂山霊宝とともに「三山符籙」と併称され、元代に正一教へと統合された。
核心教義
元始天王・太上大道君・上清の諸真を尊神とし、人身の内には衆神が居守すると考える。身中の神を存思し、経を誦し気を服することを通じて「上りて上清に登る」ことを追求し、これは天師道が求める境地よりも高い仙境である。教団の儀礼よりも個人の精神修煉を重んじる。魏晋玄学と仏教の観念を吸収し、洞観内景、形神ともに妙なる境地を提唱する。
修行と科儀
存思(日月、五方の気および身中の諸神を存想する)、『大洞真経』を誦すること、『黄庭』内景法を行うこと、服気、符を佩びること、按摩導引、薬物の服食。大規模な斎醮はあまり行わず、初期には符籙や合気を重んじなかった。陶弘景は煉丹と本草の研究を加え、唐代の司馬承禎は「坐忘」と「心斎」の静修の方法を発展させた。
伝承
上清宗師の世系は『茅山志』によれば、魏華存(第一祖)→楊羲→許謐→許翽→馬朗→馬罕→陸修静→孫游岳→陶弘景(第九祖)→王遠知→潘師正→司馬承禎→李含光→韋景昭→黄洞元→孫智清→呉法通→劉得常→王栖霞→成延昭→蔣元吉→万保沖→朱自英→毛奉柔→劉混康(第二十五代、宋の徽宗の時代)などと続き、宋末元初までに合わせて四十余代が伝えられ、元代の劉大彬(第四十五代)が『茅山志』を編纂した。