楼観道Louguan School
- 別称
- 楼観派, 楼観道派, 尹喜派
- 種類
- 教派
- 時代
- 南北朝-隋唐
- 創立
- 北朝期に形成(約5世紀)、周代の尹喜に仮託して始まりとする
- 開祖
- 関尹, 梁諶
- 地域
- 陝西周至終南山楼観
- 祖庭
- 楼観台
- 存続
- 他派に融合 — 唐代以後、独立した教団としては消滅した。元代以来、楼観台は全真教の宮観であり、今日では全真龍門派に属し、道教の祖庭の一つとみなされて、説経台などの古跡が保存されている。
概説
楼観道は南北朝から隋唐にかけて、終南山楼観を中心とした道派である。その自述によれば、楼観はもと周の康王の代、函谷関の関令であった尹喜が草を結んで楼となし、星気を観望した場所であり、老子が西へ旅する途中ここに至って『道徳経』五千言を講授したとされ、そのため楼観は「天下道林張本の地」と号される。この伝説は魏晋以後に次第に形を成していったが、実際の教団は北朝において形成された。北魏の太武帝の代、道士尹通・牛文侯らが楼観に居り、梁諶(一説に梁湛)が伝えた『楼観先師伝』に記される神授の経法があった。北周の武帝の代には王延・厳達ら「田谷十老」が重用され、武帝は通道観を建てて道士を集め経典を整理させ、楼観道は最盛期を迎えた。隋唐の際、楼観道士の岐暉(岐平定)が李淵の挙兵を資助し、唐の高祖の武徳年間には勅により楼観が修築されて宗聖観の名を賜り、楼観道は唐初の顕宗となって、李唐皇室が老子を祖先として尊ぶ政策と相呼応した。楼観道は尹喜を祖師とし、『道徳経』『西升経』『化胡経』などを宗奉し、老子化胡説を宣揚して、北朝の仏道論争において重要な役割を演じ、その道士は「通道観」が整理した経書を基礎として初期の道教類書『無上秘要』の編纂に参与した。楼観道は天師道の法籙、上清の存思、金丹服食を兼ね行い、明確な教義上の特色はなく、南北朝期における北方道教の総合体である。唐中葉以後、楼観道は次第に衰え、元代には楼観台は全真教に属することとなり、全真教の重要な祖庭の一つとなった。
核心教義
老子を教主として尊び、尹喜を祖師とし、『道徳経』と『西升経』を主要な経典とする。老子が函谷関を西に出て胡を化して仏となったとの説を宣揚し、道が先、仏が後であると主張する。天師道の法籙、上清の経法と金丹服食を併せ取り入れ、教理上は北方各派を調和させる傾向にあった。楼観道はまた隋唐における「老子は李唐の祖先である」という政治神学の重要な推進者であり、その経書と伝記の多くは尹喜が経を受けたことと老子の降世という神聖な系譜を強く描き出している。
修行と科儀
『道徳経』『西升経』を誦すること、経を講じ道を論ずること(北周の通道観)、斎醮祈禳、服気煉丹、三洞の経籙を受けること、北朝の道士が仏道論争と朝廷の宗教政策に参与することなどが行われた。楼観の道士はまた煉丹服食と存思を重んじ、唐代の楼観から出土した文物と碑刻はその宮観の規模と斎醮活動を反映している。その活動は宗教修行と政治文化の機能を兼ね備えていた。
伝承
尹喜を始祖に託す——北魏の尹通・牛文侯 → 梁諶 → 王嘉・孫徹 → 北周の王延・厳達ら「田谷十老」 → 隋唐の岐暉・尹文操ら → 唐中後期に次第に衰える → 元代に楼観台は全真教に帰属する。唐代の楼観道士、たとえば尹文操はかつて勅を奉じて『玄元皇帝聖紀』を編み、楼観を李唐の祖先崇拝に組み入れた。その後の伝承は次第に終南山の他の宮観と合流していった。