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太平道Way of Great Peace (Taiping Dao)

別称
黄巾, 黄巾道, 太平清領道
種類
教派
時代
後漢
創立
後漢の霊帝の建寧・熹平年間(約170年前後)
開祖
張角
地域
冀州鉅鹿より興り、青・徐・幽・冀・荊・揚・兗・豫の八州に及ぶ
存続
湮滅 — 184年の黄巾の乱の失敗後、教団は瓦解し、後継の伝承はない。『太平経』の残巻は『正統道蔵』太平部に収められ、初期道教を研究する上での核心的文献である。

概説

太平道は後漢末に張角が冀州で創立した初期道教教団であり、五斗米道と並んで道教最古の組織化された教派の一つである。張角は『太平清領書』(すなわち『太平経』の系統)を奉じ、みずから「大賢良師」と称し、符水と咒説をもって人の病を治し、病者に叩頭して過ちを思わせ、十余年のうちに徒衆は数十万に及んだ。彼は信徒を三十六方に分け、大方は一万余人、小方は六、七千人とし、それぞれ渠帥を置いて統率させ、厳密な教団組織を形成した。中平元年(184年)、張角は「蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉」を号として蜂起し、徒衆はみな黄色の頭巾を着けたことから、史に黄巾の乱と称される。乱はまもなく鎮圧され、張角は病死し、その弟の張宝・張梁は戦死し、太平道は教団組織としてこれによって瓦解した。残余の勢力(青州黄巾など)は後に曹操に収編された。太平道の教義は『太平経』を本とし、黄老・陰陽五行・讖緯と民間の巫術を融合し、「太平」の理想社会、天人感応、承負応報を主張し、「中黄太一」を尊神とした。存続した期間は短かったが、道教が大規模な民衆宗教として動員する力を持つことを示しており、歴代の統治者が民間道教に警戒心を抱く歴史的根源ともなった。『太平経』の思想は他の経路を通じて後世の道教に長期的な影響を及ぼした。

核心教義

黄老と「中黄太一」を尊び、『太平経』を経典とし、天・地・人の三者が相通ずることを説き、太平の世は「天を奉じ道に法る」ことによって実現できると主張した。「承負」説を提起して善悪応報が世代を隔てて伝わることを説明した。疾病は罪過に由来し、悔い改めてこそ癒えると信じた。ほかに、困窮する者を周い急を救うこと、財物を共有すること、蓄財に反対することを主張し、明らかな社会改革の色彩を帯びていた。

修行と科儀

符水と咒説をもって人の病を治し、病者を跪拝させて過ちを述べさせた。教主は九節の杖を持って符祝とした。徒衆は『太平経』関連の経文を誦習した。三十六方の階層組織を建て、渠帥が統轄した。蜂起前には讖語をもって宣伝し、信徒は黄色の頭巾を標識とした。ほかに天地水の「三官」に過ちを述べる儀礼(五斗米道と類似する)や集団での祈祷、符水を飲む儀式もあり、初期道教が治病によって人を集めるという共通の特徴を反映している。

伝承

『太平経』の系統は伝えるところでは于吉(干吉)に発するとされ、後漢の順帝の時、宮崇が『太平清領書』を朝廷に献じた。張角はその書を得て教を創始し、弟の張宝(地公将軍)・張梁(人公将軍)に伝えた。黄巾の乱の失敗後、正式な伝承はなく、青州黄巾の残部は曹操に投じた。太平道の宗教的遺産は主に『太平経』を通じて後世の道教に流入した。

主要経典

太平経

代表的な人物

張角, 張宝, 張良(付), 于吉, 宮崇
参考文献
  1. 维基百科:太平道
  2. 《后汉书·皇甫嵩传》《后汉书·襄楷传》;《三国志·魏书·张鲁传》裴注引《典略》
  3. 卿希泰主编《中国道教史》第一卷第二章
  4. 王明《太平经合校》,中华书局,1960 年
  5. 中国道教协会:太平道